ceaseless anxiety

遠くでタワーオブヘブンの鐘の音が聞こえた。
鼓膜を震わす澄んだ音は、静かに柔らかく脳内に波紋する。同時に、まるで痛みを訴えるかのように、その余韻は胸の内をざわつかせた。遠く長く余韻は再生され、やがて意識に溶けるように霧散する。寂寥感を深く孕んだ音だった。
昔からあの鐘の音は、鳴らす者の心が表れると言われている。
なら、今鐘を鳴らしているのは。

そこまで思案していたところで、ドアの向こう側から聞こえた苦しげな咳に我に返る。
手に持った紙袋を持ち直し、私は玄関のドアを開けた。
同時に真っ先に視界に映ったのは、ソファーに座っている彼の姿だ。寝ていた方が良い、と言ったはずなのに、どうやら起きてきてしまったらしい。口元に手をあてがい、無理に咳を抑え込もうとしている様子に眉をひそめた。

「寝ていてください。無理すると悪化しますよ」
「……お気になさらず」
「風邪はこじらせると怖いんですからね。あ、これ、風邪薬です。こっちが頭痛薬で、これは吐き気とか腹痛とか、そういうのに効く薬です。あとのど飴」
「そこまでしていただく必要など……」

先ほど街まで下りて買ってきた市販薬をテーブルに並べていく。
……最近、彼はよく夜中まで起きていることが多い。何か調べものをしているようにも見えるのだが、実際のところは知らない。
ただ、年末に掃除のため本屋を訪れた時だ。わざわざ私を迎えに来た彼は、気になる本があったらしく、私に持ち出しの許可を尋ねては何冊がここに持ち帰ってきていた。そのどれもがやたらと分厚く、ずいぶんと古いものだった。夜遅くまで起きている理由は、おそらくそれに目を通しているからだろう。
寝不足且つ、暖房が利いて空気が乾燥した部屋にいるのだ。喉に負荷がかかってしまうのは必至だった。熱がないのは幸いだが、咳が酷い。
だから本当はきちんと医師の診察を受けて、薬を処方してもらった方が良いのだ。しかしそれに彼が素直に頷く訳もなかった。妥協に妥協を重ねた結果、病院ではなく私が街まで行って薬を買ってくることに至ったのだ。

「病人は薬飲んで部屋に退場してください」
「咳が出るだけです。熱もありませんし、それ以外の不調もありません」
「だったらなおさら。早く治すために休んでください」
「家事はどうするのです」
「え?」
「……今日は出かけると、昨日言っていたでしょう」
「!」

言われて初めて思い出した。
確かに先日、私は彼に出かけると告げたのだ。というのも、今日は父が大切にしていたポケモンの命日だった。タワーオブヘブンに眠るその子の冥福を祈りに行く予定であったのだ。
しかし病人1人を残していくのは気が引ける。何よりもタワーオブヘブンまで半日以上かかってしまうのだ。今日家を出ると、帰ってくるのは明日の夜以降になってしまう。そんなに長い時間、病人を置いて家を空けたくない。

「今日は、いいです。後日改めて向かいます」
「私に気を使う必要などありません」
「私が気が気でないんです。何かあったらどうするんですか」
「風邪でどうにかなりますか」
「……私の母は、もともと体が弱いこともあったけど、風邪をこじらせて亡くなったんです」
「!」

ピタリと彼の動きが止まった。緋色の瞳が僅かに見開かれる。私へと向けられていた視線は、逸らすようにリビングの片隅へと移動した。その先には、母が残していったピアノがある。彼が気まぐれに鍵盤に触れていたそれは鈍く光った。

「万が一なんて、運が悪いと誰にでも起こるんですから」
「そうかもしれませんね」
「その時辛いのは、私なんですからね」

――いつだって最優先されるのは、自分≠セった。
傷つかないように。
罪悪感から逃れるために。
後悔に苛まれないように。
他人のためだと表面を着飾りながら、そこには確固たる保身があった。二律背反とも思えた2つは、蓋を開ければ表裏一体どころか同一のものだ。
見据えた瞳が、冷たく揺れる。それが暗に、拒絶を示しているのがわかった。
これ以上、互いの深部になど踏み込みたくないし、踏み込まれたくなどない。
――だから彼は私の名前を呼ばない。

ゆっくりと彼から視線を逸らした。するとそれが合図のように、彼は私の前まで寄ってくる。小さなため息が降ってきた。同時に、柔らかい声音も降ってくる。私はそれに反射的に顔を上げた。

「では、今日中に帰って来られるのならいいのでしょう」
「! そう、ですけど。でも街まで行ったらそこから電車と徒歩で行きますから。電車は時間もあるし……」
「……」

彼は僅かに逡巡した後、玄関から外に出る。その背中を慌てて追った。私は外から戻ってきたばかりだから厚着をしているが、家の中にいた彼は防寒などできてない。言ったそばから風邪が悪化してしまう。頬を包む刺すような冷たさに吐息が震えた。真っ白な息が視界を掠める。
外に出ると同時に咎めようと口を開く。しかしそれは、彼の宙へと何かを放り投げる動作により、中断された。
彼が投げたものはモンスターボールのようだ。白く発光すると共に、溢れ出た光が大きなシルエットを形作る。
漆の体と羽根、3つの頭を持つ、大きな体躯が視界に浮かんだ。

「サザンドラ……?」
「ええ」
「え、なんで……今まで……え、あれ……?」

ポケモンなんて、持っていたのか。彼へと鼻先を寄せるサザンドラの姿に思わず息を呑んだ。
出会ってからずいぶんと経つというのに、全く知らなかった。それも育成の難易度がトップレベルのサザンドラだ。一般のトレーナーではなかなかそこまで育て上げるのは難しいと聞いている。普通の人ではない、という予感はあった。しかしそれがこんな具体例付きで見るとは思いも寄らなかった。
ただ唖然とするだけの私に、彼は小さく苦笑した。

「他のポケモンは手放したのですが、これだけはどうにも付いてくるので……」
「……」
「怖がらせてしまいましたか」
「違います、違いますよ。ただ、ポケモン持ってたことに驚いたというか……」
「隠すつもりはありませんでした。ただ、怖がらせるのではないかと」
「噛みついたり、しますか?」
「残念ながら臆病な性格でしてね、そこまでする度胸はおそらくありませんよ」
「なら、平気、です」

ほんの少し、怖じ気づいたように言葉を紡ぐと、彼は再び苦笑した。それにサザンドラが私の方へと体を寄せてくる。思わず体が強張った。

「撫でてやってください」
「!」
「そう言っています」

緋色の瞳が私とサザンドラを交互に見る。それにそっと手を伸ばした。額の辺りに手のひらを這わす。細められるサザンドラの赤い瞳に、体が弛緩した。

「噛み付くつもりはないそうですよ」
「言葉、分かるんですか?」
「……長い付き合いなもので」
「……」

今一度、サザンドラの額に触れる。そしてゆっくりと輪郭に合わせ撫でた。小さくその喉が鳴る。無意識に表情が綻んだ。

「サザンドラに乗っていけば、片道は数時間で着くでしょう」
「!」
「そうすれば今日中には帰って来られるはずです」
「そ、そんな、私は……」
「心配しなくとも、それはずっと貴女のことをボールの中から見ていました。懐いていますよ。タワーオブヘブンの場所もわかっています」
「……」

だが、果たして主人がいるポケモンをそんなことに扱って良いのか。戸惑うように視線をさまよわせるが、再び頭を近付けてきたサザンドラに肩を突っつかれ、今一度彼を見た。

「行ってきなさい」
「……いいんですか?」
「私が原因で貴女の予定が狂ったとなると、多少の負い目を感じるのですよ。それは貴女も同じでしょう」
「!」
「……いいから行ってきなさい。――ノト」
「!」

彼の口から紡がれた単語に、間をおいて目を見開く。
彼は一瞬だけ罰が悪そうに表情を歪めるが、すぐにいつもの表情に戻った。
今、彼は。
僅かに跳ねた心臓に、一瞬だけ呼吸を止めた。
しかしそれも、咳き込み出した彼に我に返る。

「体冷えますよ。早く家の中に戻ってください」
「そう思うなら貴女も早く行きなさい。サザンドラも待ってます」
「あ……はい」

背を向け、家の中へと戻っていく背中を見届け、私もサザンドラの背中に乗る。黒い毛並みは艶やかで、肌触りがずいぶんと良かった。バサリと羽音を響かせ、漆の肢体が宙に浮く。

「いってきます」
「いってらっしゃい」

外気と比べて高いサザンドラの体温が、じんわりと温かかった。







20110114




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