unless dream


「魚は人肌で火傷をしてしまうんですよ」

仕事場である本屋に行くため、玄関に向かっている途中だった。荷物を抱えた私に、彼が何の前触れもなく呟いた。あまりに不意打ちに近かったため、私は瞬時に反応ができず、動きを止める。ソファーに座る彼は、昨晩降った雪で白に埋もれた外の世界を眺めていた。時折風がカタカタと窓硝子を鳴らす。私は彼の言葉を咀嚼し直し、荷物を床に置いた。

突然どうしたのだろう。
小首を傾げるが、それは彼が片手に持った本のタイトルによりすぐに解決した。私が一昨日、本屋から持ち出してきた童話の短編集だ。タイトルは「人魚姫」となっている。

「……人魚姫は、魚じゃないですよ」
「ですが魚と同じ環境で生きてきたのでしょう?」
「……」
「魚は水温を適温として生きています。水温よりは気温、そして気温より人の体温の方が遥かに高い。適温よりも何十度と高い温度に晒されれば火傷を負うのは必然……。この本に出てくる人魚は、人間の男に救われた時点でどこかしか火傷を負っているのでは?」

片手に持った本の表紙を眺めながら、彼は淡々と語った。別に童話なのだから、そこまで追求する必要はないと思う。何よりもその話の主旨はあくまで人魚姫の純愛と悲劇であって、魚の生態ではない。現実主義、と言ってしまえば確かにそうであるだけなのだが、やはり物語くらいは多少夢を見ることも必要だろう。人魚という想像上の生き物であるからこそ、その童話はさまざまな重みを持って今まで継がれてきた。無意味に細部に科学的な介入を持ち込まない方が楽しめるものだ。
どこか難しい顔をしている彼に苦笑を零す。

「子どもの夢を壊しちゃいけませんよ」
「それは失礼」

悪びれた様子もなく口にした彼は、本を開いてページを捲る。どこか退屈そうにさえ見える表情に、複雑な気分だ。一応これでも本屋の店主なので、あまり詰まらなそうに本を読まれるのは好ましくない。何気なく彼の傍らまで行き、手を伸ばして本を横から攫った。一瞬だけ大きくなる赤い瞳は、しかしすぐに怪訝な色を浮かべる。
だが敢えてそれを黙殺し、私は彼が開いていたページの文字の羅列を眺めた。……ちょうど人魚姫が王子の殺害に思い悩む場面だ。

「王子は殺されるのですか」
「いえ……人魚姫にはそれができません。最終的には彼女が泡になって消えてしまうだけです」
「可哀想な話だ」
「……」

確かに可哀想だ。だが、可哀想なのは果たして人魚姫だけだろうか。単純に誰が被害者で誰が加害者だとは括ることはできない。魔女は人魚姫の望み通りヒトにしただけだし、人魚姫の姉たちは彼女を大切に思っていた。どんな物語にも悪役≠ヘいても悪≠ヘいないのではないかと思う。
本を閉じ、テーブルに置いた。すると彼は再びそれを手に取る。どうやら言葉の割に気になるらしい。
彼は再び本のページをパラパラと捲り始めた。……その表情は相変わらずだ。次いで視線を本から私へと移した。

「己の身を犠牲にしてまで、彼女が彼を想っていたことが悲劇なのだから皮肉なものですね」
「言われると確かにそうかもしれませんけど……」
「住む世界が違う者同士が共に生きていきたいなど、無理なことなのですよ」
「……」

僅かに赤い瞳が陰る。まるで自嘲するかのような言葉だった。
……誰を思って紡いだ言葉なのだろう。
遠くにいるという彼の息子だろうか。それとも、それから示唆される彼の妻だろうか。
彼のことなど何一つ知らない私には、途方もない疑問だった。

「でも、諦めてしまったら何も起きずに話は終わってしまいます」
「それが、ある意味幸せなのかもしれません」

諦めることが幸せ?

「中途半端な温度に触れていればふやけていくだけ……生きるべき世界で生きていくのが一番安全だと思いませんか」
「……」

冷ややかな感情を宿し、彼は言う。私は返す言葉も見つからずに俯いた。
私は普通の家庭で普通に育ってきた。親から与えられるモノは与えられてきたし、また人並みに学校で頑張ってきた。私は秀才でもない。本当にただの凡人なのだ。
だから、自分が生きる世界だとか、世界が違うだとか、正直わからない。違うと言われても、何が違うのかわからない。
頭の中がぐらりと揺らぐ。
そんなことを言われても、ただ、寂しくなるだけだ。

「姿が、見えるとか、話ができるとか、そういうことが同じ世界にいるってことじゃ、間違ってますか?」
「……!」
「私は……」
「――どうにも、難しい話は貴女には似合いませんね」
「!」

彼は可笑しそうに笑いを零した。それに思わず目を丸くする。

「昔の仕事柄、変に探求心がありまして……ああ、貴女を苛めたいわけではありませんよ」
「わかってます」
「……そうですか」
「ただ」
「?」
「近くにいるのに、違う世界にいるみたいな言い方は、気分が悪いです」
「!」

今度は彼が目を丸くした。次いで可笑しそうに小さく笑いを零す。そして本をソファーに置き、立ち上がった。彼が座っていたからこそ視線を下に落としていた私は、自分よりも高い位置へと移ってしまった赤い瞳に思わず後退する。
――同時に何の前触れもなく腕を引かれる。
突然のことにバランスを崩し、目の前にある彼の胸へと体が傾いた。慌てて彼から離れようとすれば、背中に腕が回される。反射的に体が硬直した。

「やはり、ふやけていくだけでしょうね」
「!」

頭の上から声が降ってくる。暖房が効いたこの部屋にいるにも関わらず、彼の体温は冷たかった。紡がれた言葉の意味を理解できず、私は瞠目する。

「……懐柔などされないと、高を括っていたのかもしれません」
「……?」
「いえ、こちらの話です。……すみません」

体が離される。
見上げた赤い瞳が躊躇うように私からそらされた。
赤い瞳が窓の向こう側を見る。
――ああ、そろそろ家を出ないと。

「では私は仕事に行ってきますね」
「ええ、いってらっしゃい」
「行ってきます」

マフラーをまき直し、コートに袖を通す。
玄関を抜ければ、真っ白な世界とただ褪めた青空が広がっていた。

「……」

何か、寒さを凌げる物を買っていこう。抱きしめられた時の冷たさに、少しの不安と寂しさが過ぎる。無意識に人魚姫の話や彼の「住む世界が違う」と言う言葉を思い出した。
それを払拭するように、早足で目的地に向かう。

――私にとってあの家が暖かいように、彼にとってもいつかはそうなればいいのに。
身に凍みる風の冷たさに身震いし、先を急いだ。





20101225




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