薄氷と白い手

※本編07と08の間。



ページを捲りながら、ふと、鼓膜を突いた乾いた音に顔を持ち上げた。
キッチンから窺えるリビングの片隅に視線を向ける。
ソファーに座る平たい背中に眉を寄せた。
今朝方から咳がひどい。
本人は何事もなかったように平然とした顔で過ごしてはみせるが、体調に何らかの不調があるのは容易に想像がついた。
夕飯の参考にしようと開いていた料理雑誌を閉じ、おもむろに椅子から立ち上がった。
するとその物音に彼は鋭く反応し、緩慢な動作でこちらを見た。

「何か」

空気に擦り切れたその声に、ついぞ小さな不安が発露する。
先日雪が降って以来、外はぶ厚い白に覆われていた。
凍えるような寒さの日が続いていることもあり、残雪は未だ溶ける様子も見せずに庭に硬く凍り付いている。
ここ数日の気温の低さや、加湿器を付けているとはいえ暖房で部屋の空気が乾燥していることもある。
……それに、彼は真夜中にひとりでこの寒いリビングで佇んでいることもあるのだ。
何を考えて、ひとり冷えた暗闇の中にいるのかはわからない。
ただ、彼には私などが触れてはいけない部分があることも知っている。
彼がひとりでどれほど苦しんでいようと、私の前にはどうしようもない深い溝が横たわるのだ。
最も、先日本屋から持ってきた本を夜遅くまで読んでいるようだし、寝不足もあるのだろう。
私に合わせて早起きなどしなくていいのに、律儀に合わせてくれるのだ。
考えればいくらでも体調を崩す要因は出てくる。
彼が風邪をひくのも無理はないのだ。

近くの街には開業医もいることだし、診察も勧めた。
しかし大したことはないと言い切る彼に押され、結局私が市販の薬を買うことで話が収まってしまったのだ。
彼の様子を見る限り、薬に耐性があるのか、或いは市販薬を飲んでも身体を満足に休めていないせいか、なかなか回復しない。
空咳を繰り返すその背にそっと手を当てた。
衣服越しに伝うささやかな体温と背骨の感触に、一瞬だけ手に躊躇いが生まれた。

「お気遣いなく。もうほとんど治っています」
「咳がひどいのに、そんなこと言われても説得力ありませんって」
「なら、言い方を変えましょう。不調は咳のみになったので回復してきています」

やんわりと私の手を解く白い手に、気後れした。
手首に触れる冷たい指先は、骨のように白く細い。
しなやかで、男性らしく骨ばっている指が私の手首を軋ませた。
どこか威圧するような赤い虹彩に怯みながらも、顔に笑みを張り付けて強がって見せた。

「休んでいて大丈夫ですから」
「大丈夫だと言ったはずですよ」

無表情に告げられる言葉に手を引いた。
彼は小さな笑みを顔に張り付ける。

「そんな顔はやめなさい」
「!」
「まるで、私と貴女が親しい間柄のようでしょう」

静かに意識に突き刺さる言葉に、喉の奥が絞められた。
ぐらりと眩む視界に、歪みそうになる表情を無理やり設える。
彼は、いつもそうだ。
私の言動が厚意を含むものものだとわかると否や拒絶をあらわにする。
今以上、距離が縮まることを嫌悪している。
私にそんな資格がないことは知っている。
私がそんな権利を持ちえないことは知っている。
他人であることなど理解しきっている。
それでも、千切れるような寂寥に駆られるのも事実だった。

彼の紅い瞳からそっと視線をそらす。
手首から剥離する彼の体温が、乾いた空気に擦り切れた。
暖房が点いているはずなのに、妙に寒い。
誤魔化すようにキッチンに戻ろうと一度足元を見た。
するとおもむろに彼の冷えた手が伸びてくる。
それに動きを止めると、冷たい指先が頬の輪郭をなぞった。
背筋がぞくりとした。
綺麗に弓なりに細められた目が、私を映して冷ややかに光った。

「つい、殺してしまいたくなる」

するりと喉元に、その指が押し当てられる。
息が詰まった。
目の前の彼からは、驚くほど殺意も敵意も感じない。
それでも指先は容赦なく力を込めていく。
あてがわれた手は片手であるのに、おそろしいほど力が強かった。
頭は驚くほどクリアで、行われている状況が理解できないわけではない。
しかし身体が動かなかった。
体内の酸素はどんどん枯れていく。
乾いた空気が喉に張り付く。
苦しい、と感じるまでにずいぶんと間があったと思う。
気付いたかのように彼の手を剥がそうと爪を立てた。
彼の手は、いとも簡単に首から離れた。
肺にどっと流れ込む空気に、耐えきれず咳き込む。
彼は無表情のまま、淡々と口を開いた。

「怯えないのですね」
「え……」
「いえ。貴女にしては、珍しい反応だと思っただけですよ」

彼の手が咳き込む私の背中をさする。
その声は柔らかく鼓膜に触れた。
そっと覗いた赤い瞳は、どこか困ったような色を宿して微笑んでいた。

「怖く、ないわけじゃないんです。ただ、実感がないから、貴方だから、怖がることを忘れてしまうだけです」
「おかしな言い分ですね」
「あはは、そうですよね、自分でも……わからないから」

拒絶されてしまったその瞬間に、例えナイフを突きつけられようと、首を絞められようと、毒を飲まされようと、たぶん、怖いという感情は忘れてしまう。
陳腐な例えかもしれないが、ナイフや手や毒より先に、言葉に殺される、視線に殺される、態度に殺される。
瞬間的に、感情がきっと死んでしまうのだ。
どうでも良くなる。
いっそのこと、私を殺して後悔に苛まれ、罪悪感に生殺しにされてしまえば良いとすら思う。
一種の心中願望のようなものなのだろうか。
何にしても、何処かで道連れという「一緒」を望んでいる。
それは、叶わない現実に対する当て付けだ。
彼はそっと目を伏せ、無為に私の髪を撫でた。

「夕飯は、身体が温まるものを作りますね」
「今晩は冷えるそうですからね」
「早く治してくださいね」
「心配はいりません」

まるで何もなかったかのように、私と彼の日常は回り出す。
一定の距離を保ちながら、近付いてしまったら、その分の距離を作りながら、私の立ち位置 はいつまで経ってもスタート地点から離れない。

ずっと、ここから動けない。




20130307



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