花弁を燃やす日差

私ばかり取り残される。
私だけが置いて行かれる。
私だけが其処から動けない。

そんな世界できっと生きている。





「Nから話は聞きましたか」

食器を洗っていた手を止め、彼はふとしたように口を開いた。皿に積もった泡が、小さな渦を巻いて排水口に吸い込まれていく。それに意識までもが暗い渦の中に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。静かに遠退いてしまいそうな意識を手繰り寄せ、彼の赤い瞳を見つめた。
どこか懸念の色を灯す双眸が、私を映して影を落とした。
ふと、こみ上げてきそうになる眼窩の熱を押し殺し、口角を持ち上げて言葉を吐き出した。

「男の子ですからね。やっぱり、こんな狭い家にいるより広い世界を旅して、のびのびと成長していくものですよね」
「……」
「ゲーチスさんも、十代のころは旅をしたり家を離れたりしてましたか?」
「ある年齢を超えてからは、家に帰ることすらなくなりました」
「ふふ、こういうところ、親子ですね」
「……いえ」

かちゃりと、食器がすれ合う硬質な音が響く。何故かそれにビクリと肩が震えた。ゆっくりと私からそらされるその瞳に、何故か己の内側に燻る泥着いたもの思いを見透かされているような気分になった。そっと呼吸を細めた。
そんな私の小さな焦燥にすら気が付いたのかのように、彼は小さく苦笑した。流れ続けていた蛇口の水を止め、穏やかな声音で言葉が続けられた。

「あの子には、この家があるでしょう」
「……小さい上に狭い家ですよ」
「あの子と私の相違は、帰る場所の有無だ」

彼が、自身の両親と確執を持っていたという話は、記憶の片隅に残っている。
両親に愛されなかったということ。
親族に見限られたということ。
ただただ強くあることだけを求められたといういこと。
――そこに『彼』という人格が存在しなかったこと。
――居場所がなかったということ。
人並みに幸せに生きてきた私には、想像を絶する。
家は当たり前のように帰る場所であったし、両親の愛はごく自然に私に向けられていた。
そのすべてを剥奪されてしまった世界で、どう生きていくというのだろう。
どこで生きてきたのだろう。
何者として生きてきたのだろう。
だから、数年前のプラズマ団の事件があったのだろうか。
だから、私が『彼女』に敵うことはないのだろうか。

「貴女がいれば、あの子が帰る場所を失うことはない。ここは、良い場所ですよ」
「……」
「だからそんな顔をするのはやめなさい」

何処か困ったような静かな笑みが向けられた。
それに首を振る。
洗い終わり、綺麗に並べられた食器が部屋の照明にぼんやりと光った。

「貴女は拒否感受性が些か強すぎますよ」
「そんな、別に、私は」
「Nが決めたのは貴女を見限ることではない。自分自身の未熟さを認め成長することだ。負担や重荷や、ましてやここがあの子を縛り付ける鳥籠になっていたわけでもない」
「わかってます。あの子は、良い子だから、賢い子だから。私より、ずっと」
「ノト」
「私、ほんとに、駄目だな」

駄目だ。
辿り着く結論は、何度思索を繰り返そうとそのひとつのみだ。
少しずつ前へと進んでいく彼らを見るたびに、私は怯えて身動きひとつできない自分の弱さを噛みしめる。過去に囚われて動けないのは彼らではない。むしろ私なのだ。
何をとっても平凡だった。人並みに努力して、人並みに生きてきた。その一方で、社会に出ることを怯えてこうして小さな家で、適当な縁だけを頼り、生きてきた。本当の意味で社会に適応できてないのは私だ。
彼らをここに縛り付けているのは私だ。
Nを受け入れたのは、あの子を道連れにしたかったからだ。
彼をここに繋ぎとめたいのは、彼に対する思慕と同等なまでに社会からの逃げ口を確保していたいからだ。

「前にも、そんなことを言っていましたね」
「そう、でしたっけ。すみません」

あの日、同窓会から酔って帰ってきた日も、もしかしたら似たようなことを言ったかもしれない。そんな薄ぼんやりとした記憶が脳髄に滲んだ。
ふつりと湧き上がる嫌悪感に、喉を突いた弱音を噛み殺した。鎌首擡げる卑屈な自身を押し殺し、笑みを張り付けた。

「すみません。大丈夫です。私なら、大丈夫ですよ。ただ、寂しくなるなあって」
「ノト」
「Nにも、気を遣わせて、ゲーチスさんにも、心配ばかりさせてしまって、なんだか、もっとしっかりしないと駄目ですよね。でも、大丈夫です、ちゃんと、できますから」
「ノト」

――そんなふうに、名前を呼ばないで欲しい。
甘えたくなる。
何度も何度も、当たり前のように呼ばないで欲しい。
特別だなんて期待を抱いてしまう。
その声も瞳も指先も顔も手足も髪も何ひとつ、私だけのものにはならないのに、勘違いをさせないで欲しい。
そんな自分の醜い貪欲さにすら気づきたくなかった。
『彼女』に対する嫉妬にも、不安にも、自己嫌悪にも、どす黒い羨望にも、自分が当たり前のように持っているなんて知りたくなかった。
同じくらい、彼を失うことも、独りになることも、恐ろしかった。
結局あの日から一歩も私は動けないでいる。
彼が与えてくれた優しさも言葉も、全て無下にしているようなものだ。

ならばせめて、虚勢を張ることくらいはできる。
中身が伴わなくても、せめて体面くらいは保つことができるだろう。
もう、子供じゃない。

「ならば、こちらを向いて話しなさい」

ビクリと肩が震えた。
彼の冷たい手が頬に触れる。
そのまま強い力に引かれ身体が大きく傾く。
とっさに体勢を整えようと、何か掴まるものを求めて手を伸ばすが、その手ごと彼の腕の中に巻き込まれた。
息が一瞬だけ詰まる。
耳元にあてがわれる鼓動の音に、次いで柔らかい温度が身体を拘束した。

「見ないうちに、ずいぶんと強情になりましたね」
「そん、なことは、ない、です」

突然のことに、声が喉に絡まってうまく紡げない。何度か優しく髪を梳くその指先に、瞼が熱を持つ。滲む視界に、奥歯を噛みしめそれをやり過ごした。

「不安ですか。それとも、何かを恐れているのですか」
「大丈夫です」
「ノト」
「……っやめて、ください」
「!」

胸を押し返し、唇を噛みしめる。
彼は一瞬だけ目を見開くが、すぐに苦笑しては私の目元を拭った。
途端に押し出されて溢れ出す瞼の熱に、息が引きつった。

「私はこうやって、甘えてばかりでは、いられないから」
「……」
「子どもじゃ、ないから」

笑って言うことができた自分に、そっと息を吐き出した。
――同時に、彼の袖口を掴んで離せない自分がいることにも気づいた。
何が怖いのか。
何が不安なのか。
この家に取り残されることが不安なのか。
いつでも切り捨てられてしまうような存在にしかなれないことが恐ろしいのか。
私ばかり内側を晒して、私は彼の内側など僅かしか知らない。
そんなことに怯えている自分が嫌でたまらない。

「大丈夫です」

繰り返す私の頬を彼の両手が掴む。冷たい手に持ち上げられた視線が、そっと食まれた。肩が強張る。割れ物でも扱うように、その手が頬の輪郭をなぞった。震えた瞼に押し当てられたそれが、そのまま私の唇に触れる。反射的に目を瞑った。そっと押し当てられたそれはすぐに離れ、代わりにコツリと額に小さな衝撃が走った。そっと目を開ける。

「何故、こうするかわかりますか」
「……!」

細められた赤い瞳に、つい俯いた。彼がそっと離れる。

「私も貴女に、甘えているのでしょうね」
「え……」
「自分ばかりが醜態を晒しているなどと思っているなら、それは私も同様ですよ」
「だ、だって」
「貴女ほど上手く感情表現ができれば、つまらない真っ当な道を歩んでいたでしょう」
「……」
「此処に、こうして共にあることを望めば、貴女は喜ぶでしょう。驚くほど簡単に私という重荷を甘受するでしょう」
「重荷なんかじゃない。私が、ただ……す、好きだから」
「ノト」
「!」
「私の孤独は、貴女には重すぎましたか」
「違う!」

違う。
そんなことを考えたことはない。
そんな負担を感じたことはない。
身を乗り出してその赤い虹彩を覗きこむ。
彼は苦笑した。
くしゃりと撫でられた髪が肩を滑る。

「そういうことですよ」
「!」
「いらない不安ばかりですね。こうも手放しがたい人間と一緒にいるというのは」
「ゲーチスさん……」
「言わずともわかるでしょう。此処に帰っていた理由も、全て」

私たちの不文律だ。
彼は私の目元を再度拭った。
途端にぼろぼろと剥がれ落ちるように溢れだす涙に、ついぞ嗚咽が喉を突いた。
再度抱き締めてくれたその体幹にしがみつく。そっと包んでくれるその体温が、千切れるほどに愛おしい。

「その方が、貴女らしい」
「?」
「いえ、こちらの話ですよ」

不安も恐れも飲み込むような暖かさに目を閉じる。耳元で響く鼓動の音がひどく心地よかった。暖かさと鼓動の音だけに包まれ微睡む胎児はこんな安堵とこそばゆさに満たされているのだろうか。

そんな詰まらない空想をした。




20130223



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