凍る春に咲いた

自責も卑下も、自己嫌悪も、おそらく総て、彼女が思っている以上に、世界は許してくれているのではないだろうか。
そんな夢を、微睡みの中で垣間見た。





結局まともに眠れなかった。
重い瞼を擦りながら、欠伸を噛み殺す。弱々しい朝の日差しが爪先を差し、それを蹴るようにソファーから起き上がった。
幼いころからの癖だった。
不安や迷い、恐怖、心配事があると、睡眠が極端に浅くなる。意味のない被害妄想や悪い空想を繰り返しては、やり場のない感情を噛み締める。胸を掻き毟りたくなる衝動に、わざとらしく大きなため息を吐いた。
眼球の奥に居座る鈍痛に瞬きを繰り返しては、毛布を畳む。
あの後、詰まるところソファーでうたた寝と覚醒を繰り返しながら、朝を迎えてしまったのだ。
畳終わった毛布をそっとソファーに置いた。

彼が、わざわざ毛布をかけに夜中に起きてきてくれたのだろう。視界の片隅にそれをおさめながら、適当に目覚ましに珈琲を入れる。白い湯気を立ち上らせるそれを片手に持ちながら、カップの中の黒い水面を見詰めた。
また気を遣わせてしまった。
1度や2度ではない。彼を前に、私はどうしたって子どもでしかありえない。
彼が血を吐くような苦しみに耐えていても、引き千切れそうな痛みを抱えていても、私は何もできなかった。ただ、見ていることしかできなかった。私はいつだって『子ども』のままだ。

彼の痛みを包む人であるには、私ではあまりに力不足だ。それを思い知るのが、ひどく苦しい。――彼女ならば、それがごく自然にできるのだろうか。
私のように、幼稚な醜態など晒さず、彼に甘えてばかりではなく、彼に寄り添うことができるのだろうか。
凭れ掛かることしか私にはできない。
しかし彼女ならば、彼を支え、寄り添い共に歩むことができるのだろうか。
己の無力さだけが思考を焼いた。

「ノト」
「!」

とん、と鼓膜に小さな衝撃が走る。反射的に肩が強張った。同時に右手に持っていたティーカップから珈琲がこぼれた。間を置いて肌の上を踊る熱に、つい小さな悲鳴が喉を突く。テーブルに斑に散らばる黒いシミに、我に返った。
視界に見慣れた萌黄の髪が映る。
それに息を呑んだ。

「え、ぬ」
「大丈夫かい? 火傷は」

伸びてきた白い指先が、珈琲がかかった私の手に絡む。先ほど濡らしたばかりの、使っていない布巾を手にあてがう。しっとりとした冷たさが手の甲を包み、肩の力を抜いた。すぐに引いた手の甲の熱に、大丈夫だと布巾でテーブルに散らばる点を拭く。
……そっと、Nの横顔を盗み見た。
まるで何もなかったかのように、彼の表情は平生と変わらないものだった。
――いや、違う。
今までと、どこか違う。
昨晩、あの人がこの子を訪れて何か言葉を交わしたことは予想していた。どんな言葉を与えたのだろう。しかしそれでこの子の胸中に居座る痼が消え去ったならば、あの人は、やはり父親だ。
今まで翳りを帯びていた瞳が澄んでいる。所在なさげな子どものような曇りが、すっかり消えて大人びて見えた。

しかし、何故だろう。どす黒い焦燥感にも似た感情がうねる。息が詰まりそうになる。
中途半端にカップに残った黒い水面を眺め、胸中で首を擡げた罪悪感に手のひらを握りしめた。

謝らないと。
そうだ、彼に、謝らなければならない。
昨日ぶってしまたことを謝らなければならない。

「ノト、ごめんよ」
「!」
「キミに、そんな顔をさせたい訳ではなかったんだ」
「N……私は」
「僕が、子供だったんだ」
「違う、私が、酷いことを」

酷いことをした。
たとえどんなに激情に駆られようと、暴力に身を任せてはいけなかった。
彼の頬に傷や痣があるわけではない。まるで昨日が嘘のように、その頬は白い雪原を連想させた。
おもむろに手を持ち上げる。すると反射的に彼の肩がびくついた。それだけで、彼に昨日の痛みがこびり付いていることがわかる。改めて自分自身の幼稚さに、どうしようもない嫌悪感が肥大する。
そっと、彼の頬に触れる。体温が低いその滑らかな肌に指を滑らせ、顔の輪郭をなぞった。

「ごめんね」
「ノト」
「ごめん、私が、悪い。私が悪かったの。Nの気持ちを、ちゃんとわかってあげられなくて」
「いいんだ。違うんだ。僕が子供だったんだ」
「N……」

Nが私の手をすり抜け、背中を向ける。
さらりと揺れた萌黄色の髪が軌跡を描く。それが彼の背中と重なった。

「居場所が、わからなかったんだ」

彼は私に向き直る。
こちらを見る彼の瞳はひどく穏やかだ。
波ひとつ立たない湖面の瞳が、私を見て困ったように細められた。

「本当のことを言うとね、ここにいるより、プラズマ団にいたころの方が、自分の立場も、居場所も、はっきりしていた。不安がないわけじゃないけど、それでも確信があった」
「……」
「なんて言ったらいいのかな。ここに来てから、そういう不安ばかりなんだ。置いて行かれるような、ひとりじゃなにのにひとりでいるような。昔は、どんなにひとりでいてもトモダチがいたし、それ以上に夢があった。生きていることがはっきりしていたんだ」

ここでは漠然としているんだよ。
彼は私を見据えて言った。
その糾弾とも告白ともつかない言葉の羅列に、私は言いようのない不安に襲われた。
似たようなことをゲーチスさんにも言われた気がする。
家族ごっこ。飯事。ぬるま湯のような空間。それが私が守り続けているこの家だと、彼は忌々しく口にした。
私の生き方と、彼らの生き方の齟齬は、残酷なほど明確に意識に刷り込まれている。
ただ守られ存在の危惧など抱かず、凡々たる道程を歩んできた。トラウマになるような出来事も、危機も、ましてや絵に描いたような悲劇を演じたわけでもない。
彼らから最も遠い世界で、私は育ったのだ。
ならば、そんな甘えた思想の持ち主である私の傍らなど虫酸が走るだけなのだろう。

「でも、ここではそいうのがないんだ。漠然と息をしていて、時間はそれでも過ぎていて、不安になるんだ。このまま何も知らずに年を重ねていく。どんどん、世界から自分が切り離されていく」
「N……」
「それに、この家にいる限り、ノトが、いてくれるから」

おもむろに彼は私に手を伸ばした。肩にかかる髪を払い、そっと額を寄せ、凭れかかる。静かな重みが肩から意識に染み渡る。
柔らかい緑の髪が首に触れた。

「情けない話だよね。守ってもらえると思っている。社会から排斥されても、ここでは甘えられると思ってる。そんなんじゃ、僕があの日、トウヤが与えてくれた機会を無下にしていると同じなのに」
「……」
「僕は子供のままではダメなんだ。大人にならないと。そうして、支えたいんだ 」

そっと、彼は顔を持ち上げた。
今一度私を見据え、彼は躊躇うような仕草を見せた後に、はにかむようなや言葉を続けた。

「家族の、力になりたいんだ」

守られてばかりではなく、今度は自分が守りたい。

「だけど今の子供ままじゃダメだから、だから、せっかく自由になったから、もう一度、旅をしてみようと思うんだ」
「え……」
「いきなりすぎたかな。でも、僕にはそれが、一番の方法かなって」
「ここを、出ていくの?」
「うん」
「なんで、なんで、ここにいて、いいんだよ。出ていかなくていいの。ここで生きていいの、ここで」
「ありがとう。ここに来て3年間、その言葉がすごく嬉しかった。今まで何処に行けばいいのかわからなくてずっと不安だった。その言葉に安心した。だから、今度は僕がノトと父さんを安心させる番だ」
「!」

Nの両腕が背中に回される。仄かに温かい体温がふわりと身体を包んだ。柔らかい匂いも、その温度も、やはり親子なのだろう。彼によく似ていた。

「キミが嫌だから出ていくとか、ここが嫌だから出ていくとか、ましてや気を使っているわけでもないんだ。でもここにいたら、甘えてしまって、いつまで経っても子どものままだから」
「……」
「それに、トウヤにも、まだちゃんとお礼を言ってないんだ。するべきことも中途半端にしてしまっているし、後片付けは、ちゃんとしなければね」
「N……」
「でも、出ていくだなんて勝手を言いながら、こんなことを言うのも、甘えかもしれないけど、ここに、帰ってきたい」

彼の腕の力が強まる。
その細い体躯が、怯えるように震えた。それを押さえ込むように彼の全身が強張る。
宙を掻いていた手で、その緊張を解くように彼の背中をそっと撫でた。

彼の言葉に、動揺を隠せない自分がいる。
Nは、いつもどこか、頼りなく不安を宿していた。私が守らなければならないと思うこともあった。世間を知らない、赤ん坊のように無垢な子だ。私が社会から逃げ、ここで暮らすように、この子もまた、一時的に世界から離れた場所で、甘やかしてくれる人間が必要なのだと思った。孤独故生きるには難しいのだと。だから私が側にいなければならない。彼の両親の代わりに、与えられる愛情を差し出したい。母親でも、ましてや血も繋がらない他人なのに、傲っていたのだ。
いつから、そんな自分勝手な解釈を抱いて接していたのだろう。

本当にひとりだったのは、他でもない私なのに。

「キミには、ゲーチスや、アロエさんやアーティさんがいるだろ」
「!」
「僕には、キミとトウヤしかいないと思ってた」
「そんなこと」
「いつも、不安だった。トウヤにはたくさん友達がいる。キミにも、たくさんの人がいる。僕はそういうものでは、誰かの1番になれないから、どこかで、隔絶されてるみたいだった」

――それは、私の方だ。
Nはいつも誰かの思いを受けている。あの人だって、私などよりも実子であるNの方が大切に決まっている。
私は、いつも記憶に付属するだけの存在だ。
簡単に淘汰されてしまうような、ただ其処に居ただけの存在だった。
平凡、没個性的、詰まらない人間、とるに足らない人間。私が、1番になれることはない。
あの人とこの子にとっても、亡くなった彼女を前にしたら私の存在はないに等しくなる。

「でも、その一方で、なんだかキミを置き去りにしてしまいそうで。ゲーチスが母さんのところに行って、僕もトウヤのところに行ったら、キミを、ひとりにしてしまうんじゃないかって」
「……」
「矛盾してるのはわかってる。でも、キミには、笑っていて欲しいから。キミに構ってほしいだなんて幼稚な望みを持ちながら、キミを放って置くことが不安だった」
「N……」
「ノトは、ゲーチスや僕がいても、1人でいるかのように、寂しそうな顔をすることがあったから」

そんな顔を、していたのだろうか。
しかし前に、同窓会で酔って帰ってきたとき、彼に何か、酷いことを言った。
思い出すことはできない。
しかし、忘れてはいない。
Nの言葉は、何故かその記憶にぴたりとはまった。

「でも、きっと大丈夫だね。ゲーチスは、キミの側にいるって言っていたし、大丈夫だよ」

ノト。
彼が離れ、私と向き合い、確かめるように私の名前を口にした。
その顔がひどく大人びて見えた。
途端に何かが意識から遠退くような錯覚に襲われた。喪失感にひどく似たその感情に、息が詰まる。
私は、また置いていかれた。

「そんな顔を、しないでくれ」
「びっくり、しただけだから、大丈夫、大丈夫だよ。気を付けてね、いつでも帰ってきてね。Nの部屋は、そのままにしておくから、だから」
「ノト」
「旅をするなら、野宿とかするかもしれないけど、できるだけ宿を探して、風邪引いたり、怪我したりしないように、休まないとダメだよ」
「……」
「あと、忘れ物とか落とし物とか気をつけてね。ほかには、世の中には、たまに人を騙したり暴力を振るうことをしてしまう人とかいるなら、気を付けてね」
「キミに会う前はイッシュのいろいろな場所を回っていたんだよ、わかってるよ」
「それ、に」
「ノト、そんなに、不安にならなくて大丈夫だよ」
「……」
「大丈夫だよ、キミはひとりじゃない、大丈夫だよ。僕はキミを忘れないし、みんなキミを置いて消えてしまうなんてこともないよ」

だから泣かないで。
聞こえた言葉が、ついぞ眼窩を震わせた。視界が熱を持って滲む。それを唇を噛み締めることで遣り過ごし、背中を向けた。
Nが困っている。
せめて表面だけでもと必死に笑顔を浮かべ、「朝食の準備をするから」とキッチンに向かった。彼の目を見ることができなかった。

私はいつまで経っても、どうしようもなく子どもだ。



20130211



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