04

泣き叫んだ。
悔しかった。
わたしが嫉妬した。
手紙にどんなに綺麗な思いを綴っても、本心は、子供のままだった。

「怒っているのだろう」

貴女のことだ、と苦笑しながら、彼はわたしの墓石を撫でる。その腕には花束があった。供花だ。
ねえ、聞いて――





少しずつ大きくなっていくお腹に、比例して、少しずつ不安が膨張していく。きっと大丈夫だと頭の中で繰り返した。胎児に影響が出ないよう、しかしわたしの体が弱らない程度に、医者から処方してもらう薬の量を減らした。彼には薬の量が減ったことを体調が良いからだと伝えた。彼は喜んだ。少しだけ悲しそうに笑ったあとに、喜んでくれた。でも体に負担が掛かるなら、辛いなら、生まないで欲しいと言われた。わたしを喪いたくないと言ってくれた。でも、喜んでくれたから。それだけで良かった。

『う、動いた、動いたよ。今動いた』
『……ずいぶん元気なようですね』
『すごい、すごいね。ね、ここ、触ってみて、きっとまた動く』
『……』
『パパだよー。ママの大好きな人だよ。大きくなったら「ナチュラル」はパパみたいな人になるんだよ』
『名前、いつの間にかナチュラルと呼んでいますが、決定ですか』
『やだ?』
『いえ、何か特別な思い入れでも?』

首を傾げる彼に、少しだけ誇らしげになる。本で読んだのだ。お腹を撫で、言葉を続けた。

『音楽用語なの』
『?』
『ナチュラルはね、ド#をドに変えて不協和音を調和するの』
『!』
『あと、自然数。約数を持たない素数。たった1人の大切な命なんだよって。この2つの意味でナチュラル。だからね、もう大丈夫なんだよ』
『……』
『もう、不協和音なんかじゃないんだよ。わたしとこの子がいるから、大丈夫』

――ハルモニア。調和を意味する。彼はそれになる。
もう苦しまなくて良い。辛い思いをしなくていい。優しい人。名前になんて縛られないで。自由になって。

『もういいんだよ』

苦しまなくて、いいんだよ。瞳が僅かに揺れた。背中に回される腕に、抱き締め返す。大好きだと、惜しむように呟いた。

お腹の中の子は定期検診に行くたび、元気だと嬉しい言葉をもらった。少しずつ膨れていく命に、わたしは頭のどこかで自分の命が削ぎ落とされていくのを感じた。妊娠とは全く無関係の体調不良が体を襲うことが増えた。薬を飲んでいないからだろう。
――だがそれは母親なら絶対に思ってはいけないことだ。それでも、未来への不安も、痛みも、何もかもが日増しに大きくなる。
嬉しくて、倖せで、なのに苦しい毎日だった。
しかしそれだけは絶対に彼に気取られてはダメだ。わたしは笑顔を、絶対に引き剥がしてはダメだ。

彼の、倖せのために。

彼は、わたしがお腹の子にナチュラルと名前を付けてからそれで呼んでくれるようになった。検診の時も、『ナチュラルはどうでしたか』と言ってくれた。元気だよと答えたわたしに、優しく微笑んでくれる。そんな小さなやり取りが、大好きだった。笑ってくれるだけ、泣きたくなるほどうれしかった。

それから臨月に入り、わたしは出産の準備の為に入院することになった。彼は毎日のように会いに来てくれた。それに、お腹にナチュラルがいると思えば、1人じゃない。夜1人になったときは、いつも話しかけた。

『パパを助けてあげてね』
『優しい子になってね』
『ナチュラル』
『大好きだよ』
『愛してる』
『そばにいてあげられなくてごめんね』
『倖せになってね』

お腹を撫でて、話しかけるたび、動いて答えてくれた。優しい子。倖せになって。世界は冷たくて、残酷で、辛いものだけど。わたしにゲーチスがいたように、きっとあなたにも誰かが現れる。倖せになれる。
誰よりも、倖せになれる。
願って目を閉じた。


陣痛は予定通りにきた。念のためにと、帝王切開の準備もされているそうだ。腹部に走る激痛に、目に涙が浮かぶ。立ち会ってくれた彼がずっと手を握っていてくれた。額の汗を拭いてくれた。
頑張って、と看護師さんの声が聞こえた。
――やっと、ここまで来られたんだ。
良かった。生んであげられるんだ。彼にこの子を残してあげられる。
わたし、頑張ったかな。
いつも何をやってもダメだった。親に迷惑をかけるだけの悪い子だった。何もできない。要らない。詰まらない。頑張っても、頑張っても、何もできない。そんな人間だった。
でも、喜んで、くれる?

赤ん坊の鳴き声が響き渡る。途端に溢れ出てくる涙に、嗚咽を噛み殺した。

『男の子ですよ』
『あ……っ』

ナチュラル。
こんなお母さんだけど、ちゃんと生んであげられたよ。命を、わたしは。痛かったけど。怖かったけど。体は、限界だったけど。頑張った、かな。頑張ったんだよって、言ってもいいのかな。

『がんばりましたね』
『!』
『ありがとう、×××』
『……っあり、がとう』

髪を撫でてくれた手のひらに頬を寄せ、こらえきれず嗚咽した。優しく握っていた手を何度も握り返しながら、彼はわたしの名前を繰り返した。

ありがとう。
ありがとう。
ごめんね。
ごめんなさい。
大好き。





わたしの傍らで寝息を立てるナチュラルの頬を、彼は優しくつついた。その時の優しい表情に、わたしはまた泣きたくなった。
本当は、もっと一緒にいたいけど、もうすぐ消灯時間になってしまう。
明日また来ると彼は穏やかに笑って、病室を出ていった。
それと入れ違いで、主治医がやってくる。先生は赤ん坊を見ておめでとうと笑んだ後に、ひどく辛そうに表情を歪めた。

『先生、わたし、もう長くないんですね。あとどのくらいですか』
『冷静だね。……もし、延命治療なしなら、1か月限界だ』
『ありがとうございます』
『×××さん』
『ゲーチスには言わないでください。彼は、わたしを生かそうとしてくれますから』
『当たり前でしょう』
『でも、いいんです。迷惑かけたくないから。わたし、充分生きたから。倖せだったから。いいんです』
『……』
『親子の時間なので、先生は退場してください』

おどけていったわたしに、先生はまた悲しげに笑んで病室を出ていった。
ナチュラルは、静かに寝息を立てている。
わたしはサイドテーブルにある、果物ナイフを取り出した。

昔は、怖くてたまらなかった。今は、ビックリするほど平気なのに。
そっと手首に押し当てる。
ここに入院した日に書いた手紙の内容をなんとなく思い出してみる。
あんな綺麗事を書きながら、本当は真逆のことを思ってる。わたしが彼と一緒に倖せになりたかった。忘れてなんか欲しくない。でも、それでは倖せになれない。

それに、病気のことで、将来ナチュラルの重荷になるのも嫌だ。子供を生んだから、なんて、絶対に嫌だ。こんなに愛しているんだから後悔なんてない。
ただ、わたしがわがままなだけだ。いつまでも子供なだけだ。

『だから、遺書くらい大人ぶってみたかったの』

赤が流れる。真っ白なシーツに赤が広がる。カメリアの色。彼の瞳と同じ色。大好きな彼の瞳の色。
最期に見た色が愛した人の瞳だなんて、なんて幸福だろう。


わたしはゆるやかに呼吸を止めた。







真っ白な世界で彼が泣いてた。真っ暗な世界であの子がひとりでいる。
どこかで、女の子が泣いている声が聞こえた。
彼はゆっくりと真っ白な世界を押しのけ、歩き出した。
どこに行くの?
わたし、ここにいるよ。
彼を追いかける。
声をあげる。
しかし彼には届かない。
当たり前だ。
わたしはもう。

彼が立ち止まる。
女の子が膝を抱えて泣いてる。彼は、泣いてる女の子と視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
女の子が顔を上げる。
知らない子。
全然、知らない。
彼は彼女の手を引いて歩き出した。

「どうして……?」

わたし、ここにいる。どうして。どうして。

「ゲーチス、待って」

どこに行くの。呼んでるのに、どうして振り向いてくれないの。待って。待って。

「いか……行かないで……置いていかないで……!」

走ってるのに追いつかない。女の子と彼が並んで立っている。
わたしが、わたしの、場所なのに。わたしの。やだよ。とらないで。とらないでよ。やめて。やだ。怖い。怖いよ。ひとりになっちゃうよ。やだよ。怖い。助けて。

「ゲーチス、待って……ゲーチス……!」

待って、置いて行かないで。一緒にいてくれるって。ずっと一緒だって。怖い。寂しい。寂しいよ。やだよ。わたしのこと忘れちゃったの? もう要らなくなったの? わたしのこと、嫌いになったの?

「やだ……行かないで……やだよ……怖い……怖いよ」

視界が滲んだ。ボロボロと涙が零れる。声を押し殺すように手の甲を噛んだ。離れていく背中を見て、聲を押し殺して泣き叫ぶ。もう、大丈夫だと抱き締めてくれる体温はない。その場に座り込んで、肩を震わせる。
しばらくその場でひとりで泣き続けた。すると足音が聞こえ、顔を上げる。
あの時よりずっと大人びた彼が、そこにはいた。

「貴女によく似た人に会いました」
「!」

彼は膝を折り、わたしと視線を合わせる。カメリアの瞳が優しげに細められた。涙が拭われる。

「変な女性です。お人好しで、すぐに泣く」
「あの、子……?」
「……嘘が下手な点は、違いますね。貴女が病魔を隠していたことを見抜けなかった」
「……」
「貴女はきっと怒るでしょう。背伸びなどしてあんなことを書くから、感情の矛盾に泣いてしまう」
「ごめんなさい」
「早く、生まれ変わって会いに来なさい」
「!」
「来世でも、現世でも、忘れない。貴女を愛した事実は変わらない」
「……」
「待ってる」

再び溢れ出す涙に、彼は苦笑した。優しく笑う。あの頃の悲しげな色はない。あの子の、おかげ?

「……わたし、あの女の子に、会いに行く」
「……」
「ナチュラルのことは、怒ってる、よ」
「わかっています」
「ばか」

呟いて立ち上がる。よく見ると彼の右手にはわたしの遺書が握られていた。一度だけ、抱き締めて離れる。顔を拭い、遠くに佇む女の子を見た。彼を振り返る。

「いってきます」
「いってらっしゃい」

歩き出す。彼から離れる。寂しい。寂しいけど、大丈夫だ。大丈夫。彼は、笑ってた。

視界が街中に変わる。
目の前の建物のドアが開き、中からあの女の子が現れた。
目が合う。
彼女は目を見開いてわたしを見た。

「こんにち、は」
「!」
「本屋の方、ですよね」
「はい。こんにちは」

彼女は穏やかに笑んだ。笑顔の優しい感じが、なんだか彼に似てる。街並みを見回し、もう一度口を開いた。

「ここ、いいところですね」
「あ、はい。私もここに引っ越してきてずいぶんと経ちますが、本当にいいところだと思います」
「……この街に、わたしの大切な人、帰ってくるんです」
「!」

この街に。貴女のところに。
わたし以外の誰かのところ。それはとても悲しいことだ。でも、笑ってた。ナチュラルも。みんな。もしみんな倖せになれたらなんて倖せなことだろう。わたしは彼女の横顔に少しだけ嬉しくなった。

「倖せに、して、ください――」

わたしの大好きな人たちを。大切な人たちを。愛する人たちを。

どうか。





20111016




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -