02

あの子はなんで彼が好きなのかな。優しいからかな。一緒にいてくれるからかな。寂しいのかな。ひとりは恐いからかな。
でも、わたしの方が最初に好きになったんだよ。彼の好きな食べ物も知ってる。好きな色も知ってる。わたしの方が一緒にいたんだよ。わたしのこと、「好き」って、「愛してる」って。だって、わたしが一番彼を思ってるもの。彼は一番にわたしを思ってくれてるもの。
いつだってその心はわたしに向かってる。

どうせ貴女なんか、同情で彼が――





夜の街は静かで好きだ。心細く感じるけれど、街灯は綺麗だし、人がいないから飲み込まれる心配もない。足音が響く静かな空間を進みながら、手のひらに感じる熱を握り締めた。

『一度帰って、きちんと親と話しなさい』

泣きじゃくるわたしに彼は言った。服の袖で顔を拭うと、彼は力無く優しく笑って、送っていきますとわたしの手を引いた。何度拭っても熱く滲んだのまま視界で、わたしは彼の手を頼りに帰路を辿った。
街は日が暮れ落ち、街灯と月だけが明かりだった。夜気は湿気を孕み、星は見えない。肌に張り付く冷たい空気を引き剥がすように、歩いた。

『ね……やさしい人』
『……』
『わたし』
『ゲーチスです』
『!』
『貴女は、貴女の名前』
『あ……えっと、×××』

わたしの名前を彼は反芻し、立ち止まった。
――ずっと、名前も知らないのに、互いに一緒にいたなんて、なんだか変だ。
しかし名前なんて呼ぶ必要はなかった。2人でしかいなかったのだ。名前を呼ばなくても、呼びかけなくとも言葉は通じた。だってわたしが話しかける相手は彼しかいない。わたしも、彼が言葉を紡げばそれがわたしに語りかけてくれてることがわかる。それだけだ。名前なんて、個人を特定するための記号で、わたしたちは、それが今までなくても大丈夫だっただけだ。
立ち止まった彼は、わたしに背を向けたまま続けた。

『嫌いでした。自分の名前』
『!』
『そういう存在だと、定義づけられ、生きてきました』
『わ……わたし、わたしはでも……』
『……』
『わたしは、すきだよ。すき。だって、話きいてくれるの、うれしいよ。一緒にいてくれるの、うれしい。ほんとだよ、すきだよ』
『……』

どこか寂しそうに笑った横顔が向けられた。再び歩き出す手に引かれて、わたしは進む。
そうして家の前に来て、彼は『大丈夫ですよ』と呟いてわたしから離れた。それ以上口を開かず、彼は背を向け、歩き出す。それを見届け、わたしは家のドアを開けた。
家に帰ると、母が泣きながらわたしを抱き締めてくれた。何度も謝る母と、ばつが悪そうに部屋に消える父を覚えている。
途端に込み上げてくる安堵に、わたしはまた泣いた。泣きながら、そっと彼を思った。

ゲーチスを抱き締めてくれる人は、いるのかな。





その日偶然読んだ本に、虐待という言葉があった。子供が親から暴力や無視や、辛いことを受けることをいうらしい。彼の怪我を思い出す。彼は虐待されているのかな。それはとても、悲しいことだ。怪我は痛い。痛いのは、怖い。彼は毎日怖いのかな。大丈夫かな。もしかしてひとりで泣いたりしてるのかな。寂しい顔をしてたもの。
でも、わたしが一緒でも、どうにもならないのかな。もしかしてわたし、迷惑になってないかな。

『すきなんだよ』
『!』
『わたし、だから、えっと、ゲーチス、すき』
『……正気ですか』

いつもの秘密基地で、本を取り出しながら言った。初めて言われた時は、ちょっとだけ悲しかった。でも、彼はすごくびっくりしてたから。意地悪とかじゃないって、なんとなくわかった。椅子から立ち上がり、そらされた顔に、とっさに腕を掴んで引き止める。

『うそじゃないよ』
『……』
『人の話を聞くときは、ちゃんと目をあわせるんだよ』
『×××』
『だって、いっしょに生きようって言ったでしょ』
『……』
『大丈夫だよ。だってわたし、ぶったりしないよ。おこらないよ。話だってきくよ。こわくないんだよ』

立ち上がった彼が、再びゆっくりと椅子に腰を下ろした。俯いてしまったため、表情はわからない。わたしはなんとなく、母が抱き締めてくれたときのことを思い出した。椅子から腰を浮かせて、腕を伸ばす。存外薄く細い肩を抱き締めながら、少しだけ悲しくなった。

『大好き。大好きで、ごめんなさい。好き。迷惑だったら、ごめん、ね』
『×××』
『大好き』

抱き締め返してくれた彼の体温に、力を込める。彼が泣いているような気がして、なんだかわたしも泣きたくなった。





大人になったら結婚したいな。読んでいた本を閉じ、隣に座る彼を見た。伸びた髪が肩を滑る横顔が、なんだか綺麗だなあって。

『疲れましたか』
『違うよ。なんとなく、思ってただけだよ』
『何を』
『大人になりたいなあって』
『年齢的にもう子供でないのは確かですよ』

可笑しそうに笑いながら、彼は本のページを捲った。何を読んでるの、と身を乗り出して開いてあるページを覗き込んで見るが、難しい単語の羅列ばかりでわたしは読解することができない。ひとり顔を顰めながら、なんとか読める単語を辿る。

『ページが捲れません』
『まって、この単語、知ってるから』
『あとで貸しますよ』
『読めないからいい!』
『こら』

ぺちん、と軽く額を手の甲で叩かれる。痛くないと笑うと、彼は少しだけ憮然とした。
――こんなふうに、一緒に、いると。
たまに、昔の自分を思い出して恐くなる。もう、怖くはないのに、なんだか恐くなる。
お別れは、やっぱりいつか来るのかな。ずっと一緒は、無理なのかな。
人は死んでしまうから。死んでしまうのかな。わたしが先に死ぬのかな。ゲーチスが先に死ぬのかな。それはとても恐いことだ。恐い。わたしはひとりになってしまったら恐い。ゲーチスも恐いかな。でも、ずっとひとりぼっちだったって。恐いよね。一緒にいる人がいなくなるのは、恐い。

『死んじゃだめだよ』
『唐突に何です』
『わたしも一緒に死ぬ』
『何の話ですか』
『だって、ひとりぼっちになっちゃったら寂しい』
『……』
『寂しいよ』

窓から見える海を眺めた。真っ青な色が絶えずに遠くまで続いている。何もない。地平線も空と溶けて跡形もなくなる。その中に1羽だけ、海猫が飛んでる。1羽だけ。寂しそう。ぼんやりとそれを眺めるわたしに、彼が口を開いた。

『ずっと』
『!』
『ずっと、一緒にいますよ』
『ほんと?』
『どうせ、私には貴女しかいない』
『!』
『そばに――』

――寂しいよね。ゆっくりと抱き締めた体温に力を入れる。伸びてきた手のひらが頬に触れた。視界に映るカメリアの瞳が、優しく細められる。そのまま誘われるように唇を重ねた。柔らかく冷たいその感触に、息を止めた。そっと唇が離される。視線を合わせると、彼はテーブルに何かを置いた。
差し出されたそれは飾り気のないシルバーリングだ。これはお揃いなのかな。首を傾げて尋ねると、彼は穏やかに目を細めて頷いた。

『綺麗。お揃い、嬉しい』
『……』
『これでずっといっしょにいられるんだね』

一緒に。
ごめんね。
ごめんなさい。
わたしが、そんなわがまま言ったから。
わたしが悪い。
わたしが苦しめた。

わたしが、あの子になれたら良かったのに。




20111016




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