01

ずるいよ。すごく、ずるい。だって、だって、ずるい。ずるいよ。ひどい。

彼に寄り添うあの子がすごく妬ましかった。握り締めた手の甲を噛む。頭の芯が熱くなるような嫉妬も、そうすれば少しだけ和らぐ気がしたのだ。歯を皮膚に食い込ませ、引きつる呼吸を飲み込んだ。それは彼が大嫌いだったわたしの癖だったと、思い出す。目頭が熱い。ジワリと滲む世界に、痛みすら消えた体を呪った。

幼い頃から、外は恐いものだと教えられてきた。もともと虚弱体質だったこともあり、両親はわたしが面倒な事態を引き起こさない為に、予防線を引いていたのだろう。わたしが外に出ることは、通院以外なかった。わたしもそれを疑うことを知らなかったのだ。

窓から切り取られた四方の世界が、わたしにとっての外だった。季節によって色を変える風景画だ。与えられる人形やおもちゃで満足することを余儀無くされる幼少期。定期的に不調を訴えた体。機能しているのは痛覚だけかと錯覚するほど、がらんどうな毎日だった。そのたびに困った顔をしながら、両親は薬や治療のために金を削ぎ落とし続けた。わたしは何もできない。惨めでダメな人間。何をやっても上手くできない。父は、そう謝るわたしに「×××だから仕方ないんだよ」と笑った。「そんな体に生んでごめんね」と謝る母に、いつも泣きたくなった。わたしは、何もできなくても仕方ない。他人に寄生しなければ生きていけない。周りの人間は、可哀想な生き物を見る目でわたしを見た。そんな自分が、大嫌いだった。時間と金を浪費するだけの肉の塊。両親が日に日に疲れていく姿を見るのは辛かった。悲しかった。

こんなに大好きな人に迷惑をかけて、どうしてわたしは生きているんだろう。ぼんやりと、考えるようになった。薄暗い部屋の中でぬいぐるみを抱えて、息を殺す。自分が生きている未来。死んだ将来。
死んだら、どうなるんだろう。でも、わたしの体じゃすぐに死んじゃうかな。長生きはできないって、お医者様言っていたから。死んだら、お母さんとお父さんも、楽になるのかな。もう病気で痛い思いもしない。発作で苦しい思いもしない。辛い治療もない。

でも、ナイフを持つと手が震えた。2階の窓から身を乗り出すと、恐くなった。ストールで作った輪に首をかけようとすると、足が震えた。

(いたいのかな。いたいよね。くるしいのかな。くるしいよね。つらいのかな。つらいよね)

だって、こんなにも恐い。

恐い。恐いんだ。痛いのも恐い。苦しいのも恐い。辛いのも恐い。迷惑をかけるのも怖い。嫌われるのも恐い。死ぬの、恐い。
でも、息をして目を開けてると、もっと恐い。
お母さんの泣いた顔も恐い。お父さんの怒った顔も恐い。わたしがいなくなって、2人が喜んだらすごく恐い。いつか要らないって言われるかもしれないのが恐い。病院に行くのも恐い。仕方ないって言われるのも恐い。
恐い。全部恐い。死ぬの恐いのに、生きるのも恐い。

怖くてたまらなくなって、家から黙って抜け出した。どこか遠くに行ってしまえば、なんだか消えることができる気がした。そうして宛もなく歩き続けて、迷子になった。連絡手段も帰り道もわからない。頼れるものがない。心細い。ひとりだ。街から少しだけ離れた小さな森の中で、うずくまって泣いた。なんだか自分がすごくくだらないものに思えて、どうしようもなく嫌でたまらなかった。泣くことしかできない。弱虫だ。無力だ。また迷惑をかける。怒られる。嫌われてしまう。そうして泣いていたら、彼が。そうだ。そこで初めて会ったのだ。
――彼が、手を引いて、一緒に歩いてくれた。

『どこから来たのですか』
『わ、わから、ない』
『……迷子ですか』
『まいご……。うん、家、わからない、から。まいご。ごめんなさい』
『面倒なので泣かないでいただけますか』
『……なか、ない。まいご。お家わからない。ごめんなさい。できない、です』

初めて会ったときは、怪訝な顔をして、睨まれた。でもわたしが怯えると困ったように息を吐いて、見覚えのある道に来たら教えてくださいと苦笑した。離れるのが恐いから手を繋ぎたいと言ったら、困っていたけど、包帯がまかれた片手を出してくれた。繋いでくれた。優しい人。

それからは15分ほどしか歩かなかった。案外早く家に帰ってきてしまったのだ。ここ、と声を上げたわたしに、彼は道を覚えなさいと言った。優しい人。また会える、と聞いたら、困ったように笑っていた。
困らせてしまっただろうか。迷惑なのかもしれない。わたしみたいな人間は迷惑しかかけない。わたしに会えるかなんて聞かれても迷惑だ。初めて会った彼に迷惑をかけてしまう。

『やさしい人、何でも、ないです。あ、会えないが正しいです』
『変な人ですね』
『ごめんなさい』

その日、家に入ると両親にひどく叱られた。だが、その日から家の外に出ても良いと、許しが出た気もする。母と初めて買い物に行った。父と母と初めて外食をした。それはわたしにとってとても特別だった。だから、彼のことをほんの少しの間忘れていた。忘れていて、思い出したら会いたくなった。あの時の人はどうしてるだろう。
しかし会い方がわからない。もう一度あの場所に行けば会えるだろうか。母にちゃんと出かけてくる旨を伝え、その日、あの場所に向かった。

『まいごです。わたし』
『……』

会えた。同じ場所でしゃがんでいたら、人の気配を感じた。顔を上げると、赤い瞳がやはり怪訝にわたしを見ていた。カメリアだ、とぼんやりと思った。

『やさしい人、おひさしぶり、です』
『その呼び方、止めてくれませんか』
『でも、なまえ、しらない』
『……』

無言で腕を引かれた。名前は教えてくれないようだった。そして歩き出す彼は、きっとわたしの家までの道のりをたった1回で覚えてしまったのだろう。その背中を見詰めながら、手を握った。
頭いいな。羨ましいな。わたしは馬鹿だから。できないから。仕方ないから。いいな。羨ましいな。

『やさしい人、頭はどうなったらよくなりますか』
『は……?』
『わたし、バカです。バカだから、べんきょう、したい』
『向上心がある人間は伸びるので勝手に勉学に励めば良いでしょう』
『コージョー……シン』
『……まずは語彙を増やしなさい』

彼の言うことは、いちいち難しかった。当時はまだ13、4歳程度であったのに、口調は大人さながらだった。
しかしその日から、彼に会っては勉学に励む日々が始まった。別に頼んだわけではない。しかし次の日、同じようにしゃがみ込んでいたら、彼は同じように声をかけてくれた。その手には何冊かの本も一緒に。
わたしは病弱を理由にまともに学校にも行かなかった。だから最低限の字の読み書きしかできない。しかしそれでも識字能力はかなり低かった。そんなわたしに苛立つわけでも、軽蔑するわけでもなく、彼は丁寧に1つ1つ教えてくれた。勉強は楽しかった。場所は彼の秘密基地だ。街の外れにある、海が見える小さな家。何もないけどすごく暖かい場所だった。
しかしもちろん体調が悪い日もあった。そんな日は家で寝ているか病院にいたけれど、家に閉じこもっていた頃よりはずっと体調が良い日が続いていた。彼といると恐いものを忘れられる。優しい人。ちゃんと向き合ってわたしの話を聞いてくれる人。彼と話すのは楽しかった。一緒にいるのは楽しかった。
だから彼に、会いたかった。

優しい人。そういえばまだ名前を教えてもらってない。彼は自分の名前が嫌いだと教えてはくれなかった。それでも良かった。
優しげな横顔がすき。困ったように微笑む表情がすき。笑うときに細められる赤い瞳がすき。静かで落ち着いた声がすき。いつも手を引いてくれる冷たい手のひらがすき。風に揺れるふわふわした緑の髪がすき。
――大好き。

季節が巡って、何度目かの秋を迎えた日だ。両親と酷いけんかをした。きっかけは、すきなひとができたという、わたしの一言だった。会いに行きたいと言ったわたしの言葉に、両親は顔を青ざめさせた。「お前に好かれるなんて可哀想な男だな」と父が怒った。「迷惑かけないで」と母が泣いた。

『だから子供なんていらないって言ったんだ』
『この子の前でなんてこと言うの!』
『金ばかりかかる。どうしてお前はこんな子供しか生めなかったんだ!』

「怖い」を思い出した。母が泣く。父が怒鳴る。息が苦しくなる。父の振り上げた拳が母を殴り飛ばした。母の悲鳴が響く。「謝って、あの子に謝って」と母が甲高い聲を吐いた。
――わたしのせい。
――泣いてる。
――怒ってる。
恐い。
ごめんなさい。
お母さんのところにきてごめんなさい。
お父さんのところにきてごめんなさい。
ダメな子でごめんなさい。
死ぬ勇気がなくてごめんなさい。
生まれごめんなさい。
生きててごめんなさい。
人の気持ちが分からない子でごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。

わたしは泣きながら家を出た。父の怒声と母の悲鳴が鼓膜にこびりついて離れない。嫌われてしまった。きっと嫌われてしまった。どうしよう。だって『生まなければ』って。どうすればいいんだろう。家を出る瞬間に母の聲が聞こえた。

『愛していたの、愛して、いたのに』

今はもう、わたしのこと、要らなくなったのかな。

『わたしなんか』

しんじゃえばよかったのに。
膝を抱えて呟いた。でも恐い。死ぬのも恐い。でもいきるのも恐い。全部恐い。消えたい。明日がきたらひとりぼっちになってしまうだろうか。ひとりぼっちは嫌だ。わからない。
わたし。

『世界なんて、その程度でしょう』

彼は言った。その日会った彼の頬は、赤く血が滲んでいた。怪我をしていた。いや、怪我なら会うたびに増えていった。彼は痩せていった。わたしは気付いてた。気付いていながら、何も言わなかった。

『頬が……それ、痛そう。どう、したの』
『父に、咎められただけですよ』

ザワリと、心臓が震える。
――その全身の痣も?
傷も、怪我も、全部?
殴られたの?
何故殴られるの?
本で見たよ、嫌なものは暴力で排除されることがあるんでしょ?
嫌なものなの?
愛されてないの?
気付いていたよ。気付いていて、わたしは知らないふりをした。
わたしは――優越感に浸っていた。
だって、暴力を振るわれているなんて可哀想だ。愛されてない。わたしよりずっと可哀想だ。不幸だ。惨めだ。
安心したのだ。
不幸を天秤に掛けて。
わたしはまだましなのだと、頭のどこかで思っていた。
安堵した。
この人に比べたら、わたしは全然可哀想などではない。
わたしは、最低だ。
失望した。
最低だ。
わたし、最低。
死ねばいい。
死んじゃえ。
こんな醜い人間、最低な人間、死んじゃえばいいのに。

『もう、いやだ、な』
『……』
『やだ、もう、つかれた』

何もかもが嫌だ。自分も嫌。世界も嫌。生きるのも、死ぬのも。

『怖いよ……っ』

どうしたらいいかわからない。行き場がない。生き場所がない。恐い。1人で生きてくだけの力もない。頼れない。恐い。愛されない。寂しい。捨てられてしまう。怖い。怖い。

声を上げて泣いた。彼の体幹に縋りついて泣き叫んだ。優しく抱き締めてくれた彼の優しさに執着した。都合の良いように、思考を変えている。

『……一緒に、生きよう』

恐くないと宥めるその体温にしがみつき、涙を拭いた。
この時彼が突き放してくれたなら、きっと彼は倖せになれた。わたしは彼が突き放せないことを知っていて、縋ったのだ。



20111013




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