箱庭に詰め込んだ想い

この広い匣の中だけが、私の世界だった。

父と母が残したコテージは、独りで住むにはあまりに広く、ひどく寂れた空間だった。使わない部屋はすぐに埃が積もる。薄く層を成すそれは、定期的に綺麗にしなければ、あっという間に部屋を飲み込んでしまう。対し頻繁に使う部屋は、気を抜くとすぐにモノが散らばる。
ここで私が「私」を維持するには、常に気を張っていなければならなかった。
気丈でなければならない。
訪れる四季折々の色彩をひとりで抱え、くるくると回る日の動きに流され、しかし私は気を抜いてはいけない。
誰もいない空間で、冷たい空気を肺胞から取り込み全身に巡らせながら、私は平然としていなければならない。
指先から熱が抜け落ちても、体の芯が凍っても、凍えても――寂しいだなんて、思ってはいけない。それは、母が亡くなり、この家に来たときに一番最初に自分に架した覚悟だった。

しかし、いつからだろう。彼に私の世界を分け与えて、覚悟は少しずつ揺らいでいった。
広すぎた世界の密度が高まり、景色が色を変えた。
寂れた空間が色付いた。
彼を好きになって、どんどん言葉が溢れてくる。
きっと困らせてしまうから、言ってはいけない。そう凍り付かせた言葉すら溶け出して、まるで幼い子供のように口から零れ落ちてくる。甘え、寂寥感、孤独感、利己、偽善、嫉妬、独占欲、不安。駄目な自分が溢れてくる。子供に戻ってしまう。
――失いたくないと、泣き叫びたくなる。

だから。





(……なんで、打っちゃったんだろ……)

深い罪悪感に意識が浮き沈みする。彼が部屋に戻った後も、ソファーで膝を抱えながら思索した。暖房を消したリビングは、濃紺の闇と冷たさを孕んでいる。指先が悴み、感覚がない。息を吐くと、うっすらと白が散らばった。

親でもないのに、Nを打ってしまった。私はあの子に手をあげていいような立場ではない。あの子の父親の前で、感情的になり我を忘れ、ただ激情のままに頬を叩いた。醜態を晒した。眼窩が熱を持つ。その熱を逃すように、深く息を吐き出した。
彼は手をあげたことこそ咎めはしたが、それはあまりに優しい糾弾だった。
どうせならキツく叱責して欲しかった。平生の彼はそんなことをする人間ではない。それでも、そう願わずにはいられない。それだけのことをした。
そしてそう思うほどに、私とあの子の間に、埋めようのない隔たりを感じるのだ。
それは等しく、彼にも共通することだ。

やはり、私では駄目なのだ。

自暴自棄にポツリと思っては、あの子を打った手を握り締めた。爪が食い込んだ後が赤く色付く。あの子の母親なら、『彼女』ならばどうしただろうか。そう考えてしまうのは、やはり彼らが一番に思うのは『彼女』であると知っているからだろうか。

「謝らないと……」

明日、ちゃんと。
目を閉じる。
窓をカタカタと風が叩いた。





依存、しているのかもしれない。すっかり痛みも熱も収まった自身の頬を撫でる。ゲーチスには打たれたことがないわけではない。だから打たれたことに関しては、特に気に病んでいるわけではない。

でも、彼女にあんな顔をさせてしまった。

今まで不安定だった足が、ようやく立ち止まる場所を見つけた。父と母を見つけた。家を見つけた。ただ、「今」が続いてほしい。埋めようのない距離も、溶けきらない輪も、そのままで構わない。だからどうか、此処で呼吸をすることを許して欲しい。そう縋り付くことでしか、自分には居場所が与えられないのだと思っていた。そしてその事実こそが不安定なのだと、僕は理解できていなかった。

青ざめた月明かりが冷え冷えと部屋の中を染めている。息が詰まる。視界が熱を持って滲んだ。
それを袖で拭いながら、引きつった呼吸を吐き出す。

すると不意にドアがノックされた。
ビクリと肩が震える。しかし返事を待たずして、ドアは開く。ゲーチスだろう。彼女なら、返事があるまでノックを止めない。あまりに不意打ちな訪問にとっさに顔を作り直した。ベッドから椅子へと座る場所を変える。ドアの向こう側の痩身の影を見やった。

「ゲーチス……」
「……お前まで泣いていては、子供のケンカと変わりないでしょう」

僕の顔を見るなり、彼が放った一声がそれだった。彼と面と向かって話すのはあの日以来だ。不意に込み上げてきた緊張に、声帯がしまって声が出しにくい。
薄暗い部屋の中で、彼の姿は透き通るような白さで闇に浮かび上がっていた。

「ノトも、泣いてるの」
「彼女は気が小さい。今夜は放っておくのがいい」
「……」
「……ここから、出て行きたいのか」
「!」

体が震えた。反射的に「違う」と意志が言葉を引きずり出す。しかしそれは喉に絡み付いて形にならずに霧散した。
出ていきたいだなんて思っていない。ここで過ごしたい。今までのように、これからも、そう思っている。同時に、それがただの甘えであることも知っている。

「私は止めない」
「!」
「お前はお前が生きたいように生きればいい。お前は、もう自由だ」

――ならば、自由はなんて残酷だ。
価値を剥奪していく。意味が剥離される。言葉が力を持つ。そんな気など無くて吐いた言葉すら、人を抉る刃物になる。
宙に放り出されるも同然だ。ただ決められたレールの上を歩くだけの方が、立ち位置も居場所も道もはっきりしていた。「僕」は其処にいるのだと、確固たる確信があった。
ならば自由とは、転じて全てを失うことではないのだろうか。
それは、ひどく恐ろしいことだ。

「だが……」
「……」
「自由に疲れたら、またここで立ち止まればいい」
「!」
「この場所は変わらない。いつだって、彼女はお前を待っている、お前を向かい入れる」
「僕は、ゲーチスじゃないんだよ」

ノトがずっと待っていたのは、ゲーチスだ。僕じゃない。彼女は僕を、待ってはくれない。

「あまり、見誤ってやるな」
「……」
「彼女は、ケージの蓋を開けても決してケージ自体を捨てない。開けたまま、その傍らに置いておくだろう。私もお前も、出て行こうと思えばいつだって出ていける。戻りたければ戻ればいい」
「それじゃあノトを都合の良いように利用してるみたいだ」
「だから、私は彼女の傍らに根を下ろした」
「!」
「ただ静かに、飼い殺され、穏やかに荒廃していくのも悪くない」

穏やかに細められた瞳が、遠くを見詰める。
決めるのは自分自身だ。
彼はそう付け足した。
あの日から、僕はきっと動けないままここに来てしまった。
自分の過ちを頭のどこかでゲーチスのせいにしていた。何も知らなかったのだから仕方がないと、自分に言い聞かせては甘えていた。清算しようとトウヤと各地を巡っても、罪悪感が募るばかりだ。行き場がなかった。一度其処を離れてしまうと、永遠に失ってしまうのだと思っていた。――心は未だ、あの玩具に溢れた部屋に置き去りにしてしまっている。動けない。動きたくない。大人になってしまったら、僕はこの大切な場所を捨てなければならない。

「世界が恐ろしいか」
「……どうだろう。でも、自分に帰る場所がないと思うのは、ひどく心細い」
「この家は、帰る場所ではないのか」
「わからない。だけど甘えてばかりでは、いけないと思ってる」
「出て行くかどうかは自分の意志だ。ならば、全てが終わってここに帰って来るのも自分の意志だ」
「帰ってきていいのかな」
「彼女と共に過ごした時間を、大切に思うのなら」

――大切だよ。
僕にとって、トウヤが初めてできた友達なら、ノトは家族だ。失いたくない。側にいたい。だけど、今の気持ちのままじゃダメだ。僕はあまりに無知で、幼い。彼女の支えになりたい。ただ、分け与えられた部屋で世界に怯えながら過ごすのではなく、その同じようにモノを見て過ごしたい。外を歩きたい。

そのために、すべきことは。

「父さん」
「!」
「ありがとう」

仕様のない子だ、と。優しく頭を撫でられる。熱を持った眼窩から感情が溢れ出す。唇を噛み締めた。父が静かに部屋を出ていく。ドアが閉まる音が響く。

泣いてないで、旅にでる支度をしなければ。





20121227



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