nameless sound

「風邪を引きますよ」
「!」

真後ろから柔らかい衝撃が降りかかる。ぼんやりとしていたせいで、思わず飛び上がってしまった。ゆっくりと首をひねれば、星明かりに照らされた緋色の瞳が視界に映った。同様に照らされ、青白く映る頬は、まるで人形のようだった。それと同時に自身の背中に掛けられた毛布に瞬く。彼はそれに微かに眉をひそめ、再度口を開いた。

「風邪を引きます」
「あ……ありがとうございます」
「眠れないのですか」
「まあ……」

濃紺に呑まれた窓の外に視線を戻す。砕け散った硝子のような星がチカチカと瞬いていた。……時刻はもうじき夜中の二時を回る。
硝子1枚隔てた向こう側には、明かりも消え静まり返った街が見える。吐き出す息が白いことに気付き、いっそう夜気の冷たさが身に凍みた。

「明日……いや、日付ではもう今日ですか。仕事が入っているのでしょう」
「予約された本を渡すだけなんですけどね」
「客の指定した時間に寝坊など許されませんよ、書肆さん」

――書肆さん
それは私の呼称だ。彼は私をそう呼ぶ。由来は単に、私が本屋で働いていることからだ。
もちろんそんな呼び方をするのは彼だけだ。かく言う私も彼の名前を知らない。私たちは互いに名前を知らないのだ。
いや、知る必要がない、と言った方が正しいかもしれない。終わりの見える関係なら、余計な足枷はない方が好ましい。
名前なんて、もってのほかだ。
知ってしまったら、それだけで重荷に変わってしまう。去ろうとする彼を引き止める呪文になってしまう。私たちが互いに名乗らないのは、暗黙の了解だった。
名前も知らないのが当たり前で、何となく一緒にいて、必要以上の干渉はしない。淡泊な繋がりは静かな均衡を守っている。

(……でも、それは、きっと一種の安寧だ……)

平穏な毎日。変化に乏しい毎日。穏やかに過ぎていく時間。
お金には特に困っていないし、仕事も比較的良好だ。
それに本屋自体はもともとは父が趣味で営んでいたものだった。私はそれを引き継いだに過ぎない。稼ぎも父の代からご贔屓にしてくださる方がいるおかげで、生計を立てることもできていた。
私は恵まれているに違いない。

――恵まれて、いるはずなのだけれど。

「きちんと温かい格好をしてベッドに入りなさい」
「お父さんみたいですね」
「……!」
「なんて、確かお子さんいたんですよね」
「……ええ、まあ」

彼はどこか躊躇うように頷いた。彼には私より幾つか年が下の子供がいるらしい。ならば妻がいるのも至極当然のことだ。
……ただ、彼の奥さんは子供を生んで亡くなってしまったと、彼が前にそう言っていた。
それでもお子さんが生きているのは確かだ。その子はどうしているのか、今どこにいるのか。彼はそれを語らない。また、彼自身は外に出ることも他人と顔を会わせることも極端に厭っていた。まるで見つかってはいけないかのように。
だが出会った当初から、なんとなく訳ありらしいことは感じていた。だから特に深く追求しようとは思わなかった。

名前も聞かない。誰なのかわからない。どこから来たのかも知らない。どこに行こうとしてるのかわからない。
他人以上に遠い距離感だと、今更ながら思った。

「……『お父さん』」
「!」
「じゃあ、貴方をお父さんと呼ぼうと思います」
「!」
「呼び名がないのは、やっぱり不便ですから」
「あまり……釈然とはしませんが」
「お父さん、お父さん」
「……」

彼は眉を寄せた。如何にも気に入らないといった表情だ。思わず肩を震わせて笑う。そのせいで頭からかぶった毛布が床にパサリと落ちた。同時に首筋に冷たい空気が絡みつき、身震いする。

「寒……」
「大人をからかうのは止めなさい」

毛布へと手を伸ばした私より先に、彼は身を屈めて毛布を掴み上げた。とっさに赤い瞳を見れば、早く部屋に戻れと言いたげな、咎めるような視線を送ってくる。それについ意地を張って平気な振りをしてしまった。一人でいた時には意識していなかった冷たさに肌が軋む。何となく、子供扱いをされるのが気に入らなかった。

すると彼は苦笑しながら肩に毛布をかけてくれた。手のひらの温度がじんわりと肩に伝わる。
しかし直ぐに離れると思っていた体温は、予想に反して肩に残った。チラリと盗み見るように眼球を動かす。赤い瞳が不意に近付いてきた。

「!」

首筋を吐息が掠めた。スペアミントの髪が間近で揺れる。鼓膜に、何か、音が触れた。


「____」


頭の奥で言葉が波紋して砕ける。緋色もスペアミントの色も、無音でゆっくりと離れた。冷めた体温が夜気に塗り潰される。離れていく彼の背中を、とっさに振り返った。それに彼は背中を向けたまま答える。

「名前ですよ」
「!」
「私の」
「名前……?」
「私の名前です」

僅かに笑って、彼は薄闇に呑まれたドアの向こう側に足を進める。床が軋む音に空気が冷えた。彼はドアを抜ける前に、今一度「早く寝なさい」と苦笑混じりに紡いだ。
奇妙な余韻が耳の奥に残っている。

「……彼の、名前」

囁かれた言葉を脳裏で反芻した。窓の外では、雪が降り出している。
――私は恵まれているが、満たされてない。
雪と共に降り積もっていく寂しさに、意味もなく自分の名前を繰り返し口にした。





20101211
修正:20110816




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