爪を立てる温度

何があったのか。
関心がない訳ではなかった。ただ、知ってしまうことが恐ろしかったのだろう。帰ってきた2人に、どんな表情を浮かべれば良いのかわからなかった。
帰ってくるなり、彼女は慌ただしく救急箱を探し始め、彼は手に怪我を負っていた。――何があったのかなど、想像もつかない。2人の様子に取り残されてしまったような虚しさを噛み殺しながら、窓の外を眺めていた。

「N?」
「え……ああ、なに」
「ぼうっとしてるから。具合でも悪いのかなって」
「平気だよ。何でもない。それよりノトは明日も仕事だろ。早く休んだ方がいいよ」
「そっか。そうだね。……――ねえ、N」

どこか控えめに、躊躇うように、彼女は僕の名前を呼んだ。視線は床に沈んでいる。何気なく部屋を見回してみると、いつの間に去ったのか、ゲーチスの姿はなかった。ノトと視線が合わない。
彼女は、何か言い出しにくいことをそれでも口にしようとするとき、よく視線を逸らして名前を呼ぶ。その時は、大抵核心を突くようなことを口にするのだ。……ゲーチスは、彼女のこういうところはあまり得意ではないらしい。彼女に名前を呼ばれるたび、はぐらかすように話題を変える姿を前に見たことがあった。彼女は彼女で簡単に折れてしまうから、追求することもほとんどない。――僕の母親に関すること以外は。
おもむろに持ち上げられた瞳は、ゆっくりとこちらを瞳孔に収める。何故か、罪悪感にも似た感情がジワリと肥大した。

「Nは、きっとNが思ってる以上にあの人たち≠ノ愛されているよ」
「!」
「Nは、ひとりでも、ましてや居場所がない訳でもなかったんだよ」
「ノト……?」
「いや、ごめん、急に。なんて言ったらいいのかな。ただ、なんとなく、うん、難しいね」

苦笑混じりに彼女は言った。何故かそれが、どうしようもなく冷たく虚しく思えた。焦燥感とも寂寥感ともつかない感情が込み上げる。
――ここで手を放したら、きっと置き去りにされる。
それはひどく恐ろしいことだ。彼女はたった一言発するだけで僕を突き落とすだけの権限を持っている。彼女は狡い。ゲーチスだって彼女を選ぶだろう。仮に彼女がゲーチスに見捨てられたとしても、彼女には受け入れてくれる集団がある。その位置は、狡い。
酷い。

「ノト」
「!」
「ノトは僕に、ここから出て行ってほしいのかい?」
「何を言ってるの、そんなわけないでしょう」
「でも僕とキミは他人だ。本来なら、それは迷惑ということに相当するんだろ?」
「それは違うよ、そんなことない。どうしたの、急に」
「キミは優しいよね。何も知らないだろ。ゲーチスのことも、僕のことも、伝聞のみの情報だ。『愛されてる』だなんて無責任な慰めは、キミが普通に生きてきたからできるんだろ」
「N」
「英雄にもなれない。王としても出来損ない。僕に価値はもともとなかったんだよ。迷惑だってかけたくない。愛されてなんかない。今だって、ゲーチスは僕を疎ましく思ってるよ。キミも彼にも、僕は必要ないだろ……!」

次第に早口になっていくのが自分でもわかる。言われて直したつもりだった。伝わりやすいように、丁寧に紡いでいたつもりだった。しかし火がついた感情は驚くほどあっと言う間に激情に呑まれていく。気付いた頃には、駄々をこねる子供のように言葉を吐いていた。
しかし言葉を止めると同時に、頬に乾いた衝撃が走る。次いでじわりと熱と痛みを持ち始めた肌に、彼女の手のひらが震えていることに気付いた。

「謝りなさい……」
「!」
「あの人に謝りなさい!」

伸びてきた彼女の手が僕の肩を掴んだ。同時にそんな彼女を抑えるようにゲーチスが仲介に入る。

「迷惑をかけたくないだなんて、ひとりでここまで生きてきたつもりなの?」
「ノト」
「愛されてなんかないなんて、ここまで生きてきて言える言葉なの? どうしてそんな……!」
「ノト、落ち着きなさい」
「私は……!」
「――ノト」
「……」

ゲーチスが強い語調で彼女を呼んだ。我に返ったようにピタリと動きを止める彼女は、僕を見つめながら痛みに耐えるような顔をする。それに耐えきれずに、僕は部屋を飛び出した。ひどく幼稚な行動だということはわかってる。しかし自分の惨めさや情けなさをむざむざと暴かれていくようで、どうしても怖かった。

――後で、ちゃんと、謝らないと。

あの日彼女から与えられた自室のドアを閉め、膝を抱えてうずくまる。
彼女に叩かれた頬が、じんじんと熱を持っていた。





「手をあげたのは、いけませんね」

ソファーに茫洋と腰掛ける私に、彼はため息混じりに言葉を紡いだ。手のひらに叩いた頬の柔らかさと衝撃が残っている。まるで責め立てるようなその感覚に、ついぞ強い罪悪感に襲われた。

「すみません」
「貴女が謝るのは私ではないでしょう。しかし、珍しいですね。貴女があのように感情的になるのは」
「……いえ。私、前にもNと揉めたことがあって」
「!」
「私も大人気ないですよね。余裕がなくて」
「貴女だけでなく、あの子自身が感情を素直に吐き出すのも珍しい。貴女もあの子にも、それは必要なことでしょう」
「どういう意味ですか」
「いいえ、何でも」
「!」

伸びてきた大きな手のひらが、くしゃりと髪を撫でる。見上げた先の赤い瞳が穏やかなにこちらを見下ろしていた。離れていく手のひらの感覚に目を細める。ドアが閉まる音を聞きながら、深く息を吐き出した。




20120811



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