穏やかな荒廃を待つ

そこには「彼女」の気配があった。寂れた残り香が部屋の隅で綻び、沈黙している。空間を持て余している食器棚に収まった食器には妙に生活感がある。僅かに埃が積もった窓のサッシも、中途半端に引いてある椅子も、何もかもが生々しく存在していた。
――この小さな家が、自分たちにとって唯一の居場所だったのだと、彼は語った。
手を引かれるままに辿り着いた場所が、其処だった。

彼は私に背を向け、曇った窓ガラス越しに外を眺めている。私はその嫌に薄く映る背中を凝視し、立ち尽くすしかなかった。
何故、こんな場所に自分が呼ばれたのか。何故、ここに連れてくることを決断したのか。何を、語ろうとしているのか。
ただ褪めきった現実が横たわるその場所で、彼はゆっくりと私を振り返った。

「何度も、ここに在る『彼女』のモノを片付けてしまおうと思いました」

食器も、コップも、馴染んで褪せたカーテンも、何もかもが寂れている。冷たく乾いた空気は呼吸器から全身に巡り、寥々とした感覚が意識にこびりつく。
息が、詰まるようだった。
ひどく気持ち悪い。いないのに、死んだのに、去ったのに、まだ、ここに縛り付けているのか。――私はそこに到達することは決してできない。胸中に流れ込む、泥ついた感情に目を伏せた。
同じくらい、彼が一気に遠ざかる錯覚に、途方のない不安感が広がる。

彼はゆっくりと食器棚へと歩を進めた。白く細い骨のような手を伸ばし、その中にある皿を2枚手にする。その表情はここからは見えない。彼は両手で持った皿を、静かに床に叩き付けた。ガシャン、と擦れるような甲高い音が鼓膜を突き刺す。何の前触れもなく目の前で行われた破壊に、肩が強張った。飛び散った破片が、足元で冷たく光る。

「何を」
「こうして、1つ1つ壊していくことに」
「やめてください、危ない」

ガシャン、とまた1つ破砕音が響く。マグカップの柄が足元に転がってきた。彼は、ゾッとするほど無表情だった。

「解放される夢でも、見たのでしょう」
「……」
「何に囚われているのかも、わからないというのに」

ゆっくりとまばたきをした後に、彼は自嘲のように零した。その横顔は、泣いているようにも見えて、私はかけるべき言葉が見つからず戸惑うだけだった。
彼は足元にある破片を1つ、拾い上げる。そして何の躊躇いもなく、それを握った。指の間から、真っ赤な液体が手の甲をつたい、手首に達し、床にシミをつくる。――彼の虹彩と、同じ色だ。

「『お前も死ねば良かったのだ』と、『彼女』の葬儀の日に、実父は言いました」
「!」
「死んでしまおうと、思う一方で、死ぬことに興味もなかった。何もない。此処にも、何処にも、何も、ない」

――世界は、がらんどうだ。

「そうして足掻いた結果がこれです。愛するべき我が子を疎ましく思い、独善はただの貪欲に変わった。私は」
「でも」
「……」
「でも、貴方はNを見限ったりしなかった。ちゃんと手を、離さないでいた」
「……さあ、どうだろうか」
「私のことも、見限らないで、いてくれました」
「それは――違います」
「!」
「私は貴女を利用しているだけだ。今も、昔も。自分が生きる、口実にしているのです」
「私だって、貴方を……生殺しにするようなことをしてます」
「……」
「知ってますか、タワーオブヘヴンの噂。近くの小道で、亡くなった方に会えるそうです」
「詰まらない噂だ。子供騙しにすらならない」
「そう、そうですね、でも私は、貴方が『彼女』に会いに行ってしまうと思って、恐れました」
「……」
「私は、私自身がその程度なのだと、思い知るのが恐かった」

恐かった。
どうせいつも優先されるのは自分以外だ。私は後にも先にも、誰かに一番に思われることはない。誰もがみんな、一番に思うべき相手が存在している。私は常にオプションのようなものだ。――そんな考えを抱く自分が疎ましいというのに。
比べずにはいられなかった。平気だと嘯きながら独りになることは恐かった。必要とされないことも、寄り添う存在がいないことも、漠然とした不安を煽るだけだった。だから手放し難いと思ってしまった。貪欲なまでに執着してしまった。

「私、本当に、子供で」
「……」
「嫉妬だっていうのはわかっているんです。私みたいな凡人に、そんな、権利はないって、でも」
「……」
「どうしても、感情は自己中心的になってしまう」

私は、最低だ。
詰まるところあの日から何も変わっていない。幼稚で、愚昧で、最低だ。知ったふうな口を利きながら、何もわかってなかった。帰ってきてくれたから私を選んでくれたと勘違いをしていた。そこに居てくれるからもう遠ざかることはないと思っていた。――何ひとつ同じ目線で見えている景色などないのに。
誰も救われてなどいない。
あの日から、状況など変わっていない。
いや、むしろ今度は私が彼を苦しめているのかもしれない。私のせいで、彼も、あの子も、あの小さな家に縛り付けて、閉じ込めているのかもしれない。――穏やかな表情を浮かべる一方で、彼らが息苦しさに喘いでいることには気づいていた。

「ごめんなさい」
「……」
「ごめんなさい……。私が、こんなんじゃなければ」
「ノト」

鼓膜を揺する声に、俯いていた視線を持ち上げる。穏やかさにも哀しみにも映る静かな表情を抱え、彼は私の名前を呼んだ。

「無意味な仮定ほど、理想に近いものはないでしょう」
「……」
「本当は、死んでしまいたかった。しかし方法がわからなかった。いや、知ってはいました。しかしわからなかったのです」

ゆっくりと、彼は乾き始めた血が付着した手のひらを目の高さまで持ち上げた。そしてもう一方の指先で挟んでいた破片を、躊躇いなく自身の手首に突き立てた。

「何を……!」
「『彼女』は、こうして亡くなりました」
「やめてください、やめて」
「私は、これでは死ぬことができなかった」
「……!」

とっさに破片を握っている彼の手を掴む。思いのほか容易に止まる手からは、赤い液体が細く長い道を作っていた。彼は感情がごっそりと抜け落ちた瞳で私を見据え、彼の手を掴んでいる私の片手を、赤く濡れた指先で捕らえた。赤い瞳が伏せられ、まるで懺悔するように言葉が吐き出された。

「どんなに切りつけようと、手に力が入らなかった。『彼女』はあれほどまでに易く逝ってしまったのに。私にはできなかった。わからなかったのです。笑い話にもならない。私は」

――赤子だったあの子の泣き声を聞くたびに。

「どうにも」

――波のように押し寄せてくる不安があった。

「まだ小さく幼いあの手を払ってしまったら」

――もし、ひとり残してしまったら。

「誰が、ナチュラルを」

――愛してくれる人間は、いるのだろうか。

「詰まらない冗談だ。途端に恐れたなど」

――違う。
――最初から、死にたいなどとほざきながら、恐れていた。

「……本当に、滑稽な話にしかならない」

息苦しそうに吐き出された言葉に、ついぞ瞼が熱を持った。言葉の1つすら浮かばない思考に、悔しさと情けなさが去来する。ただ言葉も沈黙も飲み込むように、その薄い背中に顔を埋めた。

「置いて、いかないで」

やっとの思いで吐き出した言葉に、瞼から得体の知れない悲しみが溢れ出る。詰まるところ、一進一退を繰り返すばかりで私たちの距離や関係は変わることがない。彼は「彼女」のもとにやはり逝ってしまいたく、私はそんな彼にがむしゃらしがみつく。驚くほどに、何も変わってない。それが私たちの在り方なのだろう。なんて、滑稽だ。

こちらへと伸ばされた、赤黒い血が付着した指が喉に触れる。彼は嘲るように、そっと言葉を吐いた。

「似つかわしくない言葉はやめてください」
「!」
「つい、殺してしまいたくなる」

彼は指先で私の喉を軽く押した。小さな圧迫感は一瞬で剥離され、赤い目は伏せられる。全ての感情を噛み殺すように息を吸い込み、私は彼の手を引いた。

「帰りましょう」
「……」
「帰って、怪我の手当てをしましょう」
「大事ない」
「いえ、傷は、放っておいたら膿んでしまいますから」

――まるでこの、小さな家のように。

深く根付いたそれごと引き剥がすことができれば、どんなに良いことだろうか。彼は私の髪をくしゃくしゃに撫で、「仕様のない」といつものように苦笑した。



20120604



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