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『彼女』を語るなどおこがましいことをする資格はない。そしておそらく、私は許されないだろう。
全てを知った気になり、その全てを自分のモノのように勘違いをし、同じ位置に立っているのだと思い込んでいた。
しかしそれは彼女から繋いでいた手を切り落とされることにより自覚した。置き去りにされ、初めて気付いた。
私と『彼女』には埋めようのない食い違いがあることを、知ってしまった。
気付いてしまった。つじつま合わせの恋情が意味するものを、見つけてしまった。だから『彼女』は私を置いていったのだ。
今では二度と触れることの叶わない手の感触を懐古し、息を吐く。

――本当に愚かだったのは、誰だろう。

見限った『彼女』か、逃げ出した私か、無知なあの子か、臆病な彼女か。あるいは皆馬鹿なのかもしれない。その愚かさすら愛おしいと嘯くならば、ひとえに考えが愚昧だと言える。
自らの過ちの許しを請うために、他人の欠点をかき集めて突きつけているだけだ。それすら受け止めて、『彼女』は私を愛しているなどと言ったのだろうか。詰まらない三流文学のような科白を、吐いたのだろうか。

「わかっている……」

それの見せしめのために、『彼女』は私を置いていったのだ。

私に『彼女』を語る資格などない。私は『彼女』のことなど何1つ知らない。互いの一方通行な打算的な執着心を『愛』と形容していただけである。
しかし、それでも本当に愛していた。打算の裏に、嫌というほど感情はくすぶっていた。その事実すら忘れるほど、喪ってしまったことに絶望した。世界に、失望した。

『後を追いたいか』
『なら、お前もともに死ねば良かったのだ』

父が言った言葉が、頭にこびり付いて離れなかった。





やはり一緒に行くと言えば良かった。珈琲の香りが鼻をつく空間で、そっと息を吐いた。ガランとしたリビングには、自分以外居ない。かちかちと断続的な音を刻む時計の音を聞きながら、僕はソファーの背もたれにだらしなく寄りかかった。
ノトが帰ってきたのは夕方だった。外の冷たい空気にさらされ、赤くなった頬で微笑みながら彼女は帰宅した。その姿は自分が知っているものだ。この家にやってきてから幾度と見て、日常の1つとして脳裏に刻まれたものである。
彼女は帰宅してから大抵は夕飯の準備に取りかかる。そしてそれを僕が手伝う。パターン化した日常を、頭のどこかで楽しむ。今日もそのはずだった。

しかし彼女が帰宅した時点ですでに夕飯は出来上がっていた。あとは温めるだけだ。
――つい1時間ほど前まで、もうひとりの男が座っていたソファーに視線を向ける。
ゲーチスは、彼女が帰ってくるなり連れて行きたい場所があると言い、彼女の手を引いた。強制のつもりはなかったのだろう。すぐに離された彼の白い手は無意味に宙を掴んだ。彼女はそんな彼の様子に不安げな色を一瞬だけ瞳に宿した。しかし笑みで強引に塗り潰し、行きましょうと自ら歩を進めだした。彼は、そんな彼女を痛ましげに見つめた後に僕に視線を向けた。不意打ちだった。彼と視線をあわせるなど、おそらくここに来てから一度もなかったのだ。何よりも、かつてのような威圧感と嘲笑じみた色が抜け落ちていることに戸惑いを抱いた。彼は僕と視線をあわせるなり、もしその気があるならついて来いと抑揚に欠けた声音で紡いだ。僕にも関係がある、いや、僕には知る義務がある。そう付け足した。もちろん強制はしない。時期や感情の整理もある。今でなくてもいい。補完するように付け足される言葉に、僕はただ首を左右に振った。

覚悟がなかった。

自分で認識するよりも先に、頭のどこかで怯えた。まだ、知りたくはない。何を、とは分からなかった。ただ、知ってしまったら僕はきっと『ここ』にいられなくなってしまう。そんな気がした。
彼はそんな僕に奇妙に穏やかで、しかしどことなく寂寥が浮き沈みする顔を作った。――遠い昔にも、見たことがある顔だ。それは僕が、傷付いたポケモンに噛まれた時だったか。「その身を大切にしなさい」と、彼は処置が施された患部に触れながら言った。もちろん当時は全く気にとめはしなかった。
それから逃れるように顔を逸らし、まるで2人から空間を切り離すように僕は「いってらっしゃい」と言葉を紡いだ。

外は濃紺の帳が降りている。2人は何処に行ったのだろう。僕にも関係あるのなら、『母さん』にも関わりがある場所だろうか。
――こうやって、また僕の知らないところで世界が軋みを上げて動く。あの時と同じだ。
僕はそれを怖いとは思わない。ただ、それがもたらす不安に嫌悪を抱く。
置き去りにされることは嫌だった。もう孤独ではないと思った矢先、彼女たちが離れていくのが分かる。それはひどく寂しい。しかし僕はここから動くことができない。幼い子供のように、駄々をこねて根を張って振り返ってもらうことを待っている。それが如何に愚昧なことかもわかっていた。それでも嫌だった。「そちら側」に行くことが具体的に何を意味するのか、無意識にわかっていたのだ。

俯いた先にある手のひらを握り締める。かつて彼女が言った「ここにいていいのよ」という言葉が脳裏をよぎった。その言葉にひどく安堵した。許された気がした。嬉しかった。何処にいていいのかわからず、不安定に漂っていた不安からすくい上げられた。此処にいよう。そう、決めた。

「でもノト、僕は」

此処から、離れないといけないのだろう?
甘えで此処にいる。優しさに縋って此処にいる。他に居場所がないから此処にいる。姑息な手段に過ぎない。僕は詰まるところ未だ不安定に変わりないのだ。だから何も知りたくない。甘えることが許される子供のままでありたい。そう願ってしまう。いつか必ず訪れる「その時」を怯えている。それは一概に自分の幼稚さが生み出す執着だ。
わかっている。
子供のままでは許されない。
わかっている。

僕がいつか此処を出て行く時が来る。
しかしまだ猶予があるのなら、もう少しだけ彼女のそばにいたい。――父のそばに、いたい。

「家族」の温かさに、まだ微睡んでいたいのだ。

数時間前にゲーチスが見せた憂いを孕んだ笑みが「父親」の顔であることに気付いてしまったから、なおさら。





20120205



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