『彼女』の形で穿たれた空白

埃が積もったテーブルの縁に触れる。当時と何ひとつ変わりないその空間は、今でも家の主を待っているようだった。呼吸を止めれば、あの頃に戻れてしまうかのような錯覚さえ抱く。限り無く鮮明に明瞭と脳裏に再生される声は、まるで今にも聞こえそうなぶ厚い現実味を孕んでいた。
――しかし、いないのだ。
どこを探しても、もう二度と触れることも、声を聞くことも、隣にいることもできない。それは間違いなく目の前に横たわる現実である。不意に目頭に突き刺さる寂寥感に、目を伏せた。寂れた匂いが、染み渡るように意識を満す。

――帰ろう。

踵を返す。明日こそ、片付けなければならない。断ち切る覚悟はとうの昔にあったはずだ。しかし自分には明らかな未練があると、実行できない現実が嘲笑っていた。





少しだけ息が詰まった。平生と変わらない表情を携えて帰ってきた彼の顔を見上げ、私は喉がひきつるのを感じた。テーブルに朝食を並べていた手を止め、こちらに向かい歩いてくる彼を待つ。白い指先がゆっくりとした動作で椅子を引き、四肢をそこに沈めた。どこか疲労が滲む表情に、僅かな懸念が胸中に宿った。彼の分の朝食を彼の前に差し出し、首を傾げる。

「外、寒かったですよね。温かい飲み物を用意しますね。何か飲みたいものはありますか?」
「いえ、お気遣いなく」
「無理をするとまた風邪引いてしまいますよ」
「ご心配なく」
「風邪だってこじらせると大変なんですからね」
「つい先日まで寝込んでいた方に言われる筋合いはありませんが?」

わざとらしく意地の悪い笑みを浮かべる表情に、つい顔を顰める。すぐに表情は苦笑に変わる。伸びてきた手の平がくしゃりと髪を撫でる。外気に晒され冷え切ったその指先は、ひどく無機質に思えた。……妙なところで子供扱いされるところだけは、以前と変わらない。
彼のその行動には常々不服だ、と軽く態度で示してきた。しかし全く気にとめる様子もない横顔に、私はひとりで憮然とした表情を貼り付けるのだ。
子供扱いはやめて欲しい、と繰り返し繰り返してきた日々を思い起こす。彼はそのたび「まだ子供だ」と私を揶揄した。
――しかし、実際はもう、子供では許されないのだ。
Nをこの家に受け入れた日、甘えもエゴも切り落としたつもりだった。
自立しなければならない。責任を負わなければならない。自己で判断しなければならない。
甘えは、許されない。
――それでも、甘えてしまいたくなる。
無条件で与えられる『それ』に、縋ってしまいたくなる。ひどく情けないことだ。彼のように、何かを与えられるような大人になりたいのに。
そっと目を伏せ、私もまた席に着いた。Nが「早く食べないと冷めてしまう」と言葉を零す。この後に待ち受ける忙しさを空想し、つい苦笑した。

「それに、今日は出版社が来るって言ってただろ」
「うん、早めに家を出であっちに行かないと」
「やっぱり君ひとりだと心配だから僕も行くよ」
「なあに、それ」

苦笑しながら朝食を口に運ぶ。時計は7時半を指し示す。窓の向こう側は、冬でもなく、春にも至らない寂れた景色が広がっていた。思い返せば、彼との生活で春を迎えるのは初めてだ。Nとは4度目になるだろうか。命の芽吹きを宿した柔らかい萌黄の髪を視界に収めて思案する。あと何回この風景の中で過ごすことができるだろう。不意に、そんな泣き出したくなるような問が胸の内に発露した。





幼少期の反動だよ、とアロエさんが高らかに笑った。出版社の人間も帰り、入荷した新書の整理をしていた手を止める。
……あんなことを言っていたが、Nは置いてきた。ああ言われてしまうと、やはり意地を張ってしまう。この意固地な部分も私の欠点だ。いつまでも経ってもやはり彼の言う通り子供のままなのだと息を吐いた。

「そんなに悩むなら追い出しちまいなよ」
「そんなことしませんから」
「お見合いなら私もお勧めの良い人がいるよ」
「し、しませんってば」
「一途だねえ」

差し出した紅茶を口に含みながら、アロエさんは苦笑混じりに零す。テーカップの擦れる無機質な音が鼓膜を突いた。
最後の一冊を棚に並べ、辺りに散らばった包装用紙をゴミ箱に詰める。ひと通り片付けを済まし、私は彼女の向かいに腰を下ろした。窓を風が叩く。冷め切った紅茶を、乾いた唇を潤すように口腔に流し込む。アロエさんは窓の外と私を交互に視界に収め、僅かに声のトーンを落として言葉を吐いた。

「あの手の男は、かなり厄介だと思うけどね」
「優しい方ですよ」
「何度も言っているが、アンタはプラズマ団にいた頃のやつを知らないだろう。私たちからしたら、騙されてるとか思えない。あの男はそれだけのことをしてきた」
「私が無知であることも、わかってます」
「まあ、要らない気遣いなのかもしれないけどさ。……ただ、アンタの父親のこともあるだろう」
「……」
「身を固めるなら、最低限連絡は必要になる。私たちも手伝うよ」
「アロエさん」
「ん?」
「いえ、あの、すごく物騒なことを聞きます。例えば、例えばですよ。アロエさんは、旦那さんに先立たれたら後を追いたくなりますか?」
「いきなりだね」
「……すみません」
「その問いの経緯は聞かないよ。……少なくとも、一瞬でも後を追いたいと思う気持ちが湧かないと言えば、嘘になる」
「そうですよね。誰か、代わりがいても、そうですか?」

僅かに細められる瞳が、哀れむような色を宿した。私はそれに僅かに怖じ気付く。膝の上に置いた手のひらに力が籠もった。

「誰も『代わり』になんてなれないよ」
「……」
「生涯添い遂げようとした相手なら尚更ね。相手を喪ったとき――ありきたりな形容だけど、胸に空いた穴はその人物の形なんだ。誰かをはめ込むことも、誰かで埋めることもできない。パズルのピースと同じさ。他の誰かじゃダメなんだ。その人でないと。無理やり他の誰かをあてがっても、ますます穴が歪に肥大するだけ。わかるだろう?」
「はい……」
「アンタはノトで、他の誰でもない。誰かの代わりにはなれないし、アンタの代わりには誰もなれない」
「……」
「だから、あの親子はアンタを選んだんだよ」

悔しいけど、と彼女は屈託なく笑った。空になったティーカップの縁をなぞる指先が、優しげに滑る。穏やかな表情を浮かべたアロエさんが、「また来るよ」と呟いてゆっくりと立ち上がった。

「何かあったらいつでも言いな。力になるよ」
「ありがとうございます」

ドアの向こう側に消えていく背中を見送り、深く呼吸を吐き出す。
――『代わり』になりたいわけではない。
ただ、自分の存在の稀薄さに恐ろしくなっただけだ。それは子が親の気を引くような感情に近いのかもしれない。
ひとりきりになった空間で、そっと俯く。
情けない。
惨め。
幼稚。
詰まらない。

「どうせなら、『貴女』に成りすましてしまいたいな……」

そうすれば、誰も何も傷付かない。そんな妄想が頭の中で木霊した。彼とあの子に何よりも愛される女性は、どんな思いで彼らを置いていったのだろう。




20111113



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