箱庭に眠る記憶

ノトは僕の母さんが嫌いなのだと思う。
それは嫉妬と括られる感情に位置付けられるものだ。本人はそれを自覚していて、且つそんな感情を抱く自分に強い劣等感を抱いているのだ。それはそれでやり切れないだろう。
それに正直なところ、母親の顔は写真でしか知らない。愛着、という点において、ノトに傾いてしまうことは必然的だったと思う。
しかし母親についての関心が絶えたわけではない。
昔も、今も――もしかしたら、昔以上に今は強い関心を抱いている。
それはひとえに父親の剥き出しの本心を垣間見たからかもしれない。彼女の話から、彼がずっと強い執着心に取り憑かれているということをなんとなく感じた。
彼女が嫉妬し、彼が執着した、僕の母親。

(会って、みたかったな)

生きていたら抱き締めてくれただろうか。頭を撫でてくれただろうか。名前を呼んでくれただろうか。傍にいてくれただろうか。
ベッドの上に投げ出された腕を持ち上げる。そっと瞼を拭い、天井を見つめる。最近ではすっかり馴染んだこの空間に、ゆっくりと息を吐き出した。
ノトは、怒るだろうか。会いたいと言ったら、怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。

ゲーチスが、僕が、『あの人』を思うとき、何故か彼女をどこか真っ暗な場所に独りで置き去りにするような、そんな罪悪感があった。





また、眠れなかったのかな。
リビングのソファに投げ出された白い手足を眺め、そちらに近付く。床に落ちた2枚の毛布は、もしかしたら彼が彼女にかけたものかもしれない。いくら初春とはいえ、未だ震えるほどに寒い日々が数日置きにやってくる。朝晩なら尚更だ。冷え込みが厳しい時間に、こんなところで寝ていたらまた風邪を引いてしまう。毛布を腕に抱え、再度彼女の肢体を覆うように掛けた。触れた指先の冷たさに不安にも似た蟠りが膨らんだ。

「……ノト」
「――」
「風邪を引いてしまうよ。まだ寝たいなら部屋に戻って」
「……あ、え……」

えぬ、と舌足らずな声が空間に溶ける。まだ寝ぼけているのか。焦点の合わない瞳が辺りを緩慢に見回す。それを苦笑しながら眺め、自分の行動の矛盾から目をそらした。
引きずるように体を起こす彼女は、欠伸を噛み殺しては裸足で床に足を着いた。いつもより白く映る肌は、きっと気温のせいだろう。彼女は一瞬だけ身を震わせる。その姿に目を細め、首を傾げて問いかけた。

「最近眠れないみたいだけど、何かあったのかい?」
「何もないよ。なんとなく眠れない日、たまにあるでしょ?」
「……」

乾いた笑いを零す彼女は、その身に掛けられていた毛布を丁寧に畳んでは腕に抱える。寝起きで乱れた髪がその目元を覆い、深い影を落としていた。
何気なしに辺りの気配を窺うが、ゲーチスはいないようだった。ここ最近、よく家を空けている。彼女の言葉から、それが『母』のもとであることはなんとなく察しが付いていた。
そんなことをしていたら、ノトを不安にさせるだろうに。
たまに思うことがある。それは城の中で、彼と僕が形式上主従関係であった時も常々感じていたことだ。
ゲーチスは、もしかしたら後を追いたかったのかもしれない。
しかし僕が生きてしまった。彼の中にある『あの人』の願いと、彼自身の本望とは相剋していたに違いない。疲弊しきったその身に追い討ちをかけるように、今まで生きてきたのだろう。
彼がノトの傍らに居着いた理由が、ここに来てからわかるようになった。

「ゲーチス、どこ行ったんだろうね」
「さあ。あ、朝食、作らないとね。あと今日は出版社の人が来て新書の整理をしないといけないから。私は先に行くね」
「僕も一緒に行くよ」
「大丈夫。いつも頑張ってるんだから、たまには休んで」

笑んでみせる彼女に苦笑を返し、「じゃあ朝食を作るよ」と付け足す。僅かに目を丸くする姿を敢えて黙殺し、そのままキッチンに向かった。ノトは間をおいて「お願いね」と笑い声を含んだ声で返し、リビングを出て行った。
――ノトは、滅多なことで人を知ろうとしないらしい。
アロエというジムリーダーが言っていた。ゲーチスのことであんなに必死になっていた彼女を思うと、それは違和感のある言葉だった。しかしそれだけ彼女にとって彼が特別であったのなら、それは強ち間違いではない。
事実、彼女は僕がここに来た時も、更に彼や僕について探りを入れるということをしなかった。
知りたくはないのか。一度だけ問いかけたことがある。彼女は笑って答えた。

『知っても知らなくても、きっと変わらないもの』

だから、教えてくれることは大切であり、知ってしまったことには責任を持つのだ。自分から聞かないのは、聞く必要が少なくとも自分にはないから。彼女なりの対人関係のスタイルなのだろう。
捉えようによっては、他人に対し無関心、という印象を受ける。しかし孤独に怯える姿から、彼女を知ってる人間にはそうは映らない。
極端に消極的、顔色を窺っている、怯えている、劣等感の塊。それ故の、相手と自分が傷付かない予防線を張っている。
ある種の距離感だ。
埋めようとすれば簡単に埋まるが、敢えて埋めない距離。

それが楽だった。
傷付かない。そういった確証があったからだ。
傷付くことにも、傷付けられることにも彼女は怯えている。彼女がそうである限り、傷付くことはない。打算的なことは理解している。
しかしそうして僕は――もしかしたら彼も、この場所を獲得したのだ。

だから僕は彼女のことを知ってるようで全く知らない。頭のどこかで、彼女に対する認識が有象無象のそれと酷似したものになっている。
知りたい。
だけど、知りたくない。
知ることで、自分が抱く理想像を打ち砕かれることを恐れている。


「あ、お帰りなさい」
「!」

彼女の声がリビングの方から響く。いつの間にか帰ってきていた彼が、彼女に穏やかに笑ってみせた。その姿に、ちりちりと静かな熱が思考を焼く。

彼女を置いていくような加害妄想を抱えながら、僕は2人に置いて行かれるような詰まらない不安を抱くのだ。





20111103




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