這う指先と雨粒の色

大人になることはひどく難しい。
いつまで経っても幼少の頃の寂しさを拭えず、ここまできてしまった私には、途方のない難題だった。

別に辛い幼少期を過ごしたわけではない。父と母が揃っていた記憶もある。病弱である母が家を空けることがあっても、父が旅から偶にしか家に帰って来なくとも、私は家族が揃えば満足だった。私は純粋に倖せだったのだ。
寂しさも、不安も、恐怖も、なかったわけではないが、それを上回るだけの愛情を受け取っていた。
愛されていた。少なくとも、独りではなかった。恵まれていたのだ。
恵まれていたのに、これ以上何を望むというのだろう。
それ以上は単なるわがままだなのだ。
ベッドの隅で体を縮め、ポツリと思う。彼に咎められるように言われ、部屋に戻ってきた。しかし今さら眠気を覚えるでもなく、私は冴えた瞼を持て余す。思考に絡み付いた重い感情を解すように寝返りを打ち、息を吐いた。脳裏に同級生の言葉が浮かび上がる。

(あの噂知ってる?)
(会えるんだって)
(死んだ人に)
(タワーオブヘブン近くの小路の先にある森の中で、亡くなった人に、会えるんだって)

ただの、噂だ。根も葉もない、拙い噂話なのだ。
しかしその時酔っていたこともあり、私は嫌な想像を巡らせた。彼は、会いに行くのだろうか。会いたいと悲しげに笑うだろうか。『彼女』を求めて、私のもとを去っていくだろうか。私よりも『彼女』が大切なのだ。天秤にかけられたとき、傾くものは決まってる。彼は、またいなくなる。
――嫌だ。置いて行かれるのは、嫌だ。

わかっていながら、私は大人気なく駄々をこねたのだ。幼稚で利己的だ。呆れられてしまっても仕方がない。
でも、それでも、彼を手放したくないと願ってしまう。

「……ばかだ……」

自身の体をきつく抱きしめ、唇を噛む。早く日が昇らないだろうか。暗闇の中の心細さに、胸が千切れてしまいそうだと思った。



「あ、おはよう」

廊下に出るなり響いた声に、私は足を止める。振り返った先では、欠伸を噛み殺したNが眠そうに佇んでいた。……よく見ると、シャツのボタンがずれている。未だ意識は半分微睡みに浸かっているのだろう。思わずクスリと笑みをこぼしながらその傍らに寄り、ずれたボタンに指を伸ばした。私のあまりに突飛な行動に、最初は驚いたように彼は身を引いたが、すぐに理解し苦笑した。

「自分でやるから」
「ふふ、珍しい。寝ぼけながら着替えてたの?」
「恥ずかしいから止めてよ」

肩を押され、私もまた苦笑を返した。どうにも、Nに対して子供扱いをしてしまう。彼がもうそんな年ではないことはわかってる。それでも彼の今までの時間を思うと、どうしても拭えない痼りがあった。そのたびに膨れ上がるのは、不謹慎にも好奇心だ。この子の母親は、生きていたらどう接していたのだろう。――彼の愛した人は、生きていたらもっとうまく彼を思ったのだろうか。
漣のように、寄せては引いていく関心事は、私の思考をいいようにかき回していく。
……余計なことを考えるのは止めよう。二度と会うことは叶わない人間だ。過去を掘り返しても、傷つけるだけだ。

「それより本当にもう大丈夫なのかい?」
「おかげさまで元気」
「そう。良かった」

並んで廊下を歩きながら、空気の冷たさに身を震わせる。もう冬は終わったというのに、なかなか気温が上がらない。去年の冬はそこまで寒さは厳しくなった。そのぶん暖かくなるのも早かったのだ。
だけど、彼が出て行った年の冬も、ずいぶんと寒さが厳しかった。
リビングのドアを開けながら、ぼんやりとそんなことを思い出す。ドアノブに指を這わせ、その冷たさを手のひらに収めた。ゆっくりとそれを捻り、向こう側に足を進める。

「あ、れ」

いない。リビングとダイニングを見回し、首を傾げた。すでに起きていると思ったのだ。しかし視界に映る気配のない姿の代わりに、テーブルに小さなメモ用紙が残されていることに気付いた。手に取りそれを見れば、鋭く細い綺麗な文字が「昼前に戻ります」とだけ告げていた。
薄い膜のような不安が心臓を包む。
戻ってくる。きっと、戻ってくる。その確信はあった。
しかしそれ以上に違和感が貼り付いている。
だって、今まで、彼が自分から家を出るなんてなかった。
どこに向かったのだろう。そう考えた時、皮肉にも必然的に辿り着いてしまう答えを私は抱えていた。
しかしそれはある種の僻みだ。嫉妬だ。不安に対する八つ当たりだ。

「ゲーチス、どこに行ったんだろう」

抑揚に欠けた声音で、彼は窓の向こう側を眺めた。空は鉛色だ。雨が降らないうちに、早く帰ってくればいいのに。そんな思いを込めて、私はポツリと答えとも呟きともとれない言葉を漏らした。

「……たぶん、もしかしたら、お墓参りじゃないかな」
「え?」
「『あの人』の」
「!」

Nの顔が、少しだけ強張った気がした。





20111022




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