手のひらで掬う砂

――あなたは、■■■■が嫌いなのですね。
悲しげな目をして、わたしを否定したあの人を、それでもわたしは手放したくはありませんでした。






ひどく残酷なことを言った。
何の前触れもなく意識に降りた自覚に、目を覚ます。瞼を持ち上げた先に広がる世界は蒼く暗い。軋む関節を叱責して体を起こし、霞む視界を擦った。青ざめた月の明かりが冷ややかに視界を裂き、空間が呼吸を止めたように沈黙している。
一体どれほど眠っていたのだろう。眠りに落ちる直前の記憶には、昼食を部屋に運んできたNの姿があった。そこから先がプツンと途切れている。何気なしに見た時計は真夜中の1時を回っていた。……ずいぶんと長い時間、寝てしまっていたようだ。しかし睡眠をとったことや薬を飲んだこともあり、体にべっとりと熱を持って纏わりついていた怠さは払拭されていた。脳髄に水が溜まっていたかのような重い頭痛も薄れ、ずいぶんと体が軽い。

すっかり冴えてしまった意識に、ゆっくりとベッドから降りる。長時間動かなかったためか、痺れを切らしたように体は部屋の外に向かった。
思いのほか冷たく肌を刺す空気に身震いする。羽織ったカーディガンの上から体をさすり、気休めにもならない熱を指先に絡め取った。

おそらく彼らは床に就いたのだろう。物音1つしない廊下を慎重に進み、リビングのドアを開ける。カーテンから差し込む月明かりだけがその中を照らし出していた。普段なら柔らかくふかふかに見えるソファーも、この冷えた空間では石造のようだ。ゆっくりとそちらに向かい、腰を下ろす。部屋に籠もってばかりだったため、肺腑に流れ込む冷たい外の空気も、ひどく新鮮なものに感じられた。
一度深く呼吸を繰り返し、背もたれに体を預ける。すると廊下の方から、静かにドアが開く音が響いた。反射的に振り返れば、赤い瞳がこちらを見て瞬いた。

「……ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
「いえ、寝付けずに起きていただけですよ。貴女こそ、病人が夜更かしというのは感心しませんね」
「もうすっかり良くなりました」

眉をひそめ、咎めるように紡いだ彼に、苦笑混じりに返す。1つため息を吐いた後に傍らに寄ってきた彼は、徐に私の額へと手を伸ばした。
ぺたりと触れた手のひらから、静かな冷たさが伝わる。しかしすぐに離れていく指先に目を細め、視線を足下に落とした。

「確かに熱は下がったようですね」
「2日も横になってれば嫌でも回復しますよ。それに治ったなら動かないと。体が鈍っていますから」
「急くことはないでしょう」
「動きたいんです」

僅かなカーテンの隙間の向こう側を眺めながら、カーディガンの裾を握り締める。隣に彼が座るのがわかった。もう1人分の体重に、ソファーが僅かに沈む。途端に罪悪感にも似たものが込み上げた。
――ひどく残酷なことを言った気がする。あの日、クラス会から帰ってきた時だ。飲み過ぎたせいもあるのだろうが、無性にむしゃくしゃしていた。態度が悪かった。嫉妬、羨望、利己、独り合点。無責任な思い込みで勝手に苛々していた。そして八つ当たりにも似たことをした。
謝るべきことが、あるのだ。
躊躇うことを誤魔化すようにそらしていた視線に、ソファーの上で膝を抱える。頭の中をくるくると旋回する自己嫌悪に、手のひらに爪を立てた。そして一呼吸置いた後に、口を開く。

「すみません」
「! ……唐突ですね。どうしたのですか」
「いや、えっと、泥酔しながら……帰ってきました、から」
「ああ」
「その上二日酔いから風邪を悪化させて熱まで出して家事とか仕事とか……」
「気にする必要はありませんよ。嫌いではありませんから」
「……あと」
「?」
「私、帰ってきた時に、何か変なことを言いませんでしたか」
「!」

爪先に落としていた視線を、ゆっくりと持ち上げる。
傍らにある赤い瞳へと持ち上げた視線を向ければ、それは月明かりに透き通るように丸くなる。しかしすぐに感情が抜け落ちたように細められた。

「何も。貴女の方は何かありましたか」
「……酔っていて、あまり覚えてないです」
「そうですか。なら、良かった」

『良かった』とは、果たしてどういうことなのだろう。わざとらしく、私にわかるよう故意に吐かれた言葉に胸中がざわつく。彼は私から視線をそらし、濃く深い黒で塗りつぶされた部屋の片隅を茫洋と眺めた。頭に少しずつ灰が降り積もっていくように、感情が曇っていく。
まるで探り合うようなこのやり取りに、虚しさが去来する。訪れた沈黙に背中を丸めるように身を縮めた。
――ただ一緒にいたいだけだと、綺麗にしつらえた執着を繰り返す。日増しにそれは自己弁護と共に膨張していく。卑屈な思考が少しずつマイナスな方向へと意識を引きずっていく。
あの時は引き止めたい思いだけだった。『彼女』の存在を知って、良い人ぶってみたくなった。そうして未練がましく待ち続けて、彼に戻ってきてもらって、私はどうしたかったのだろう。
独りは厭だった。大切だった。惹かれていた。執着していた。
言葉を並べ、その総てを許すように帰ってきた彼に不安がよぎる。

――そうだ。あの夜に、思い知っただけのことだ。自分の矮小さを、突きつけられただけのことだ。

彼らが誰かを思う時、誰を一番に思うのだろう。
わかっているのは、私ではないということだ。私はそうやって淘汰されていく。『今』だけでも、充分なはずなのに。それ以上を求めるなど、なんて傲慢で貪欲なのか。
もっと昔は、謙虚に振る舞えたはずだ。どんどん甘えていくようになっている。情けない醜態を晒している。

外気に触れる指先から熱が抜け落ちる。冷え切った指先に更に固く身を閉ざせば、何の前触れもなく鼓膜に音が触れた。

「病み上がりなのだから、早く部屋に戻りなさい」
「!」
「体が冷えてしまうでしょう」

ソファーから立ち上がった彼が、私の腕をゆるりと引いた。それに床に落としていた視線を持ち上げる。苦笑を浮かべるその表情を見上げながら、軋んだ胸の内にひどく虚しくなった。冷たい床に裸足で降り、喉を突く感情にたまらず言葉を吐いた。

「狡い、ですね」
「!」
「狡いです……。同じ位置にいるふりをして、届かない場所にいるなんて」

――今は亡き『彼女』を思いながら私の傍らにいると言うのなら。

「酷い……酷い人」

呻くように紡いだ。私のうなじへと指を滑らせ、引き寄せる力に任せて冷えた体幹にすり寄る。聞こえる鼓動に背中に腕を回せば、彼は抑揚に欠けた声で言葉を紡いだ。

「ならば、私を生殺しにする貴女も残酷だ」
「――……」
「わかっていながらこの場所に私を縫い付ける貴女は、狡賢い人間だ」
「……」
「それでもこの場所を望んだのは私だ。不満はない。不服もない。ただ」
「……?」
「いや……貴女には、難しい話は似合いませんね」
「!」
「前にも話したでしょう。貴女に私が懐柔されたというだけの話です」

――懐柔。今では遠くなってしまった日々の記憶を辿る。かつて、似たような応酬をしたことがあった。
住む世界が違うと彼は言った。私にそれに、何と答えただろう。

いつからそんなシンプルな答えすら、見落としてしまうようになったのだろうか。





20110925




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