同慶に沈む子供

諦めたふりをして、他人の甘さにつけ込んで生きていた。
良い人ぶって、お菓子をばらまくように他人に「優しく」してきた。それはひどく楽で、狡賢い生き方だ。表面上の良い人を演じ、その内側で孤絶に怯える。臆病者だった。
嫌われることを恐れて、いつも平然とした顔で他人の後ろをついて行く。何も言わなければ、当たり障りのない人間として、取り立てて好かれなくとも嫌われもしない。影の薄い人間。存在感のない人間。

『そういえば居たんだ≠チて、思い出して』
『ほら、卒業して結構変わっちゃう子いるでしょ』
『連絡先とかわからなかったから』

そう言われて初めて、恐怖した。その中で、自分が死んだも同然だと理解した。社会に生きていた自分は、忘れ去られていく。それは死んだも同然のことだ。社会に淘汰されたのだ。
それはきっと、彼らにもいえることだ。彼がその心に一番に思うのは『彼女』で、あの子には父である彼がいる。私は、もしかしたら、何処にもいないのかもしれない。
打算的な自分が、嗤いながら耳打ちする。卑屈に捻れていく。

どうせ、大切なものは――。





ドアの前で、一度深く呼吸をする。緊張ではない。どちらかというと、それは畏怖に近い。恐れているのだ。
苦しげに咳き込む音が聞こえ、ノックをしてドアを開ける。本来なら返事を待つべきなのだろうが、この場合は返事が負担になってしまうだろう。ここ数日、彼女はずっと体調が優れない様子だった。市販薬を飲んでやり過ごしていたようだったが、昨日古い友人たちとのクラス会から戻ってきてからは一気に悪化した。
左手に抱えたお盆に気を使いながら、開けたドアを閉める。こちらに背を向けるようにしてベッドに横になる薄い背中に目を細めた。

「お粥、作ったんだけど食べられるかい?」
「……置いといて」

ざらつき掠れた声が答える。喘ぐように吐き出された声は、機械音の如く抑揚に欠けていた。ゆっくりとその傍らまで行き、側にある椅子に腰を下ろす。お盆は側にあるテーブルに置いた。
彼女はこちらに背を向けたまま、口を閉ざす。訪れた沈黙に、浅く息を吐いた。呼吸器から肺に流れ込み、肺胞に染みる冷えた匂いに、いつも虚しくなる。他人なのだと、現実を突き付けられるのだ。それが怖かった。この手はいとも簡単に手放されてしまう。未来など保証されていない。脆弱過ぎる繋がりだった。

やっと、留まるべき場所を与えられたのだと思っていた。この場所を宿り木とし、生きていくことができるのだと思っていた。残酷なほどに、安堵していたのだ。
しかし彼がここ帰ってきて、途端に、不安になった。
自分が、何故か要らないモノのように思えた。
3年間、彼女の傍らにいて、もちろん齟齬が生まれることはあった。しかしそれは、彼よりも僕との時間が長い証だ。彼女の為にできることは何だってした。少しでも社会へと開いて生きていこうと、怯える足を叱責して外に向かった。どうしようもなく子供だったかもしれない。あまりに社会に対して疎い人間だったかもしれない。それでも、目をそらすことなく逃げずに歩んできた。
――だけど、どうして、僕が、こんなにも。
それが嫉妬であることくらい、わかっている。打算的にも見返りを求めている。彼女はこんなにも僕のために時間を割き、そばにいてくれたのに、僕はそれ以上のことをした気になっている。その考えが狡いとわかっていながら、彼女を狡い人間だと思わずにはいられなかった。
僕たちを見限れば、いつだって普通の社会に彼女は戻ることができる。彼女には、場所が用意されている。僻みであることはわかる。

「ノト……」
「なに」
「無理をするから、こんなことになるんだよ」
「そう、だね」

弱々しく響く声に不安がシミのようにジワリと肥大する。おもむろに寝返りを打ち、こちらに向けられる瞳に顔をそらした。胃が締め付けられるような圧迫感が込み上げる。青ざめたその頬は、写真で見た顔しか知らない自分の母親を連想させた。疲れ切ったようにも見えるその表情に、喉元まで溢れてきた言葉を飲み込んだ。
彼女は穏やかに目を弓なりに細め、ざらついた声で言葉を紡ぐ。

「お粥、取ってもらえる?」
「うん」
「ねえ、N」
「……なに」
「無理、しなくていいから」
「え?」
「本屋。臨時休業にしてしまえばいいだけの話だし、たまにはゆっくり休んで」
「ノトには、あまり言われたくないな」
「私は他人に甘えてばかりの人間だよ」
「……」
「酷い人間、だよ」

気だるそうに上体を起こし、お粥を受け取った彼女は言った。暗がりを孕んだ瞳孔が光を求めて広がる。
また、そんな顔をする。
何を考えているのか、わからない。ノトも、ゲーチスも、わからない。僕だけがいつも何も知らない。爪弾きにあう。近付くことができない。輪に入ることができない。だけど、それは仕方がない。
『僕』は、仕方ないのだ。
嫉妬も、見返りを求めることも、仕方ない。僕はまだどうしようもなく子供で、情けないほど無力だ。
どうせ、遠巻きに眺めることしか出来はしない。
だけど。

「ゲーチス、呼んでこようか」
「え、なん、で」
「ゲーチスは、ノトのことを僕よりわかってるだろ」
「いや、だから、なんで……そんな突然」
「……」
「N?」
「ふ……はは、あはは」
「!」
「慌てすぎだよ、キミ」
「からかってるの?」
「さあ」
「もう、大人をからかわないの」

ぺちんと小さな音を立てて、彼女の手の甲が僕の額を軽く打つ。それに目を細め、自分よりも高いその体温に指を絡めた。泣き出してしまいたいほど、柔らかく暖かいそれに身を寄せる。『あの人』が生きていたら、彼女と同じ反応をするだろうか。写真の若い女性の顔を思い浮かべながら、彼女の首筋に頬を寄せ、緩く背中に腕を回した。

情けないと思う。これでは全く格好付かない。
彼女に母性を求めている。ずっとそうだ。だから嫉妬も全て、母の比護にしがみつきたい子供の我が儘なのだ。比護の外で生きることに怯える、臆病者の考えだ。
だから、アロエというジムリーダーが言ったことは強ち間違いでもない。

――母さん。

彼女には聞こえないよう、唇だけで言葉を紡ぐ。そうすれば、少しだけ『人』に近付ける気がした。「甘えん坊さんだ」と揶揄するように笑う彼女にしがみつきながら、僕は目を閉じる。

『お前は「彼女」と私の子供だ』

彼がくれた言葉を信じるためにも、それは必要だった。どうしても欲しかった。ドロドロに甘やかしてくれる彼女に縋りついて、夢を見ていたかった。
でも、本当は。


僕はただ、喜ぶ顔が、見たいだけで――。




20110906




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