手折る呼吸

胎児が母の胎内で守られ与えられ、そうして生きていくように、生まれた子供もまた両親の庇護のもと生きていく。母の胎内が絶対不可侵の領域であるよう、「家庭」もまた容易に触れることなどできないものだ。子供は胎児の延長線上にある。家庭は羊水で、家は子宮だ。
外に出るその日までに、まっさらで何ひとつない空っぽの頭に生きる手段が刻み込まれる。自己の基盤が組み立てられ、常識を与えられ、その巨大な庇護の下外へと向かうのだ。
――だが、もし親に与えられたそれらが、社会にそぐわぬ自己だとしたら。形作られた自分が、社会に適合できなかったら。
生きていくすべを持とうと、どれほど聡明であったとしとしても、誰かと生きていく方法を知らなければ、ひどく生きにくい。

だが、生きやすい世界とは、果たしてどのようなものだろうか。今、生きている世界は。彼は。――大切な人に置き去りにされた、人は。そうして、隔絶されたように、生きる彼らは。
そう生きてきたからこそ、背を向けるという形が、社会との折り合いを付ける一番の方法だと知っている。

それは、ひどく悲しい。諦念の、表れだ。





ノトの風邪は思いのほか長引いた。発熱があるわけでもなく、不調が顕著に現れるわけでもなく。悪化しない点はまだ良い方だろうか。気休めとはいえ、市販薬を飲んでいる。その効力もあるのだろう。だからといって快方に向かっているのかと問われれば、そうとも言い切ることはできない。ただただ彼女が苦しそうに咳に喘ぐだけの日々が過ぎていく。
いっそのこと微熱でも出てしまえば、病院に引っ張っていくなり大人しくさせるなりできたのだが。しかし「元気だ」と言い張る彼女は確かに咳を繰り返すだけで、ほとんど体調に支障をきたした様子はなかった。

上辺のみの無理を重ねていることは分かっている。だが、休めと言い聞かせて大人しく寝ているような女でもない。……3年間会わない間に強情さに拍車がかかってしまったようだ。あのアロエというジムリーダーの影響だろうか。
市販薬と中途半端に体を休めては無理をするせいか、風邪は悪化するわけでもく、また快方にも向かい難くなっているようだった。危うい均衡で今の状態を保たれている。

放っておいても、時間がかかるだけで確かに治ることは治だろう。病人の看病くらいはできる。
ここ数日はNが気を使い、本屋へは彼が行っているようだった。まるで急かすように彼女を休ませる姿には、多少の違和感を覚えた。もちろん心配をしているということもあるだろう。あれは彼女によく懐いている。母親のこともあるのか、そのあたりに敏感になっているのかもしれない。

だがそれ以上に、日にちまで決めて、しきりに回復を要する姿は不可解であった。その日に何かあるのだろうか。
何気なしに壁に掛けられたカレンダーに視線を向ける。
確か、それは明日の。

「クラス、会」
「はい、明日のお昼から、高校の。とは言っても、正式なものじゃなくて、都合が良いクラスメートで集まって、シッポウシティで飲み会なだけなんです」

可笑しそうに言葉を零す彼女に、合点がいった。彼はおそらく、彼女に古い友人と会ってほしかったのだろう。以前、彼は自分たちのことを忘れて彼女が自由にできる時間を与えたいと言っていた。私たちと出会う前の彼女に戻り、社会に対する引け目も気後れもなく笑って欲しいと、呟いていた。
私からすれば、それはひどく、想像し難い。
そう思ってしまえるほどに、彼女は私と同じ位置に在ろうとしている。社会への畏怖を追うべきなのは、私1人で充分なはずであるのに。

「すみません。あまり行くつもりはなかったので、すっかり伝えるのを忘れてました」
「行ってきなさい。懐かしい友人とも会うのでしょう」
「でも」
「ただ、体調があまり良くないのだから早めに帰ってきなさい」
「平気ですって。それに、帰ってきたばかりなんですから、馴染むまでは私も……」
「!」

情けない笑みで私の袖を掴み、彼女はゆっくりと俯いた。
――3人でいる時のぎこちない空気に、彼女は過敏だった。
理解しながら、上手く接することができない。それはあの子を王に祀る時分の方が、違和感なく接することができたほどに。
断ち切ることはひどく簡単だ。だが、断ち切ったそれを断ち切る以前に戻すことは不可能である。一度切った紐が、歪な結び目を持って1本に戻るように、そこには歪みが生じる。関係には痼りが残り、途方のない距離感を抱く。それは自業自得なのだ。因果応報である。
それを彼女が背負うとすることなどない。
しかしそれすら共に背負うと、言うのなら。

「バカですね」
「意地が悪いことばかり言うと私泣きますからね」
「……」
「なん、ですか」
「――忘れる一時があっても、悪くはない」
「……Nも、同じことを言ってましたよ」
「貴女は私たちとは別に、もっと楽に、呼吸をして良いのですよ」
「苦しいだなんて思ったことありません」
「……」
「思ってません」
「仕様がない人ですね」

そらされた頬を撫でる。途端に部屋に響く空咳に、手を背中へと滑らせた。背を軽く叩き、少しでも苦痛を和らげようと試みる。指先から伝わる冷えた熱に目を細めた。

「明日は行ってきなさい」
「……わかり、ました」

――貴女が、窒息してしまわぬよう。
遠慮がちに微笑んだ横顔に、虚しさが去来する。傍らにいることの代償を、私は何よりも知っているはずだった。





翌日の昼下がりに、彼女は言葉通りシッポウシティに向かっていった。
本屋は都合良く休業日だったらしく、Nは家の中や外で野生のポケモンを振り回し、黙々と時間を潰していた。
時間は、ただ淡々と過ぎていった。
まともな会話はなく、ひたすら冷たく時間を浪費していく。別段珍しいこともない。そういう形しか私たちには与えられなかった。そこから動けないだけの話だ。




「……ねえ」
「!」

適当に夕飯も済ませた。尾を引くように過ぎていく時間を、茫洋とソファーの上で流していく。
月は弧を描くように、鈍く天頂を目指す。遠くに眺められる街明かりに目を細めながら、月が真上に掛かる虚空を視界に収めた。彼女はまだ帰って来ない。神経質に時計を眺めていた私に、彼は何の前触れもなく口を開いた。
緩慢な動作で廊下の入り口に立つ彼に視線を向けた。

「何か」
「どうして、貴方は帰ってきたんだい」
「――!」
「ノトの前でこんなことを言ったら、彼女が悲しむだろ。だから」
「……」
「考えるんだ。僕たちが、いなかったらって。僕が、彼女の時間を食い潰してる」
「……」
「今も、昔も、変わってない。誰かの人生を代償に、僕は――」

――それは、『彼女』のことを言っているのだろうか。
だとすれば、それは傲りだ。『彼女』は望んでNを生んだ。そして望みを遂げ、己の命を悲観し、世界を見限ったのだ。生きることに、疲れていたのだ。
もし、自分が人間1人の人生を終わらせてしまったというのなら、それは傲りだ。

「もしも、」
「!」
「もし、自分の存在が他の人間に負の影響を及ぼすと考えているなら、それは高慢だ」
「僕は」
「お前は、ただの子供だ」
「……!」
「『彼女』が望んで遺した、ただの人間だ。人間の子供に、他人を絶望させる力などない」
「……」
「お前は、『彼女』と私の、子供だ」

たったそれだけの曲がりない真実だ。どんなに否定をしようと、書き換えることはできない。それに絶望すると言うのなら、私を憎悪すればいい。

「……『母親』だけは、恨んでくれるな」
「……」

口を固く閉ざし、彼は踵を返した。廊下の向こう側にその背中は消える。ドアが閉まる音と共に、空間が僅かに冷えた気がした。
そう生きてきたのだから、彼に根付いた私への懐疑は深いだろう。今さら父親として振る舞うつもりはない。恨みも憎しみも甘んじて受け入れよう。ただ。

『どうして、貴方は帰ってきたんだい』

その問いに答えを出すのならば、私はただこの場所に根を下ろしただけのことだ。

吐息を漏らすと、玄関の方で物音がした。彼女が帰ってきたのだろう。ソファーから立ち上がり、リビングを出る。玄関のドアを閉めているその姿が彼女であることを確認し、近付いた。

「遅かったですね」
「……」

声をかければ、ゆらりと彼女の顔が向けられる。同時に肢体は大きく傾いた。とっさに手を伸ばし、支えると、強いアルコールの匂いが鼻孔を突く。あまりに想定外なその姿と、アルコールの匂いに反射的に顔を顰めた。ドサリと鈍い音を立てて彼女のバッグが床に落ちる。首を深く擡げ、糸の切れた人形のようにだらしなく力の抜け落ちた体を支え直した。

「……飲み過ぎですよ」
「は、あは」

おそらく明日には忘れてしまうだろう。そう思いながらも、咎めるように言葉を紡ぐ。すると音に反応したのか、彼女は擡げた首を持ち上げた。
照明に透き通る虹彩に囲まれた瞳が、暗く濁っている。不意に腕に彼女の指先が這い、ゾッとするほど強い力で圧力がかかった。

「ノト?」
「会えたら」
「しっかりしなさい」
「会え、たら、さ」
「?」

私の腕に彼女の指先が容赦なく食い込んでいく。痛みに眉をひそめるが、今の彼女には理解などできないだろう。呂律の回らない口調で、彼女は続けた。

「死んだ人に会えたら、いらなく、なるんでしょ」
「?」
「そうだよね、そっちの方が大切、知ってる」
「何を」
「私、ダメな子だもん」

『わたし、ダメなんだって。ダメだからね、仕方がないんだよ』

脳裏を掠める古い記憶に、心臓が鈍く蠢く。彼女はそれだけ言うとずるずるとその場に崩れ落ちた。

翌日になると、彼女は堰を切ったように熱を出し、体調を崩し、2日ほど寝込んだ。
私の腕には彼女が爪を立てた後が、青くくすんだ痣として数日間残っていた。





20110905




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