拾い上げる道


乾いた空気が咽頭に張り付く。気道が震えるように軋み、ついぞ咳が躯を揺さぶった。呼吸器を満たす冷たさに、身を縮める。
カレンダー上の数字は春を示すものなのだが、どうにも気温が釣り合っていない。もちろん日中になれば、冬のような張り詰めた寒さは緩んでいく。だが、朝晩の冷え込みが厳しい。カーテンの隙間から差し込む陽射しは細く弱々しいモノで、吐息で簡単に飛ばされてしまいそうだ。ゆらゆらと海月のように日の光に透き通って揺れるカーテンが、まだ夢心地へと意識を沈める。霧が立ち込めたかのように曇る意識は、おもむろに意識を眠りへと手招いた。しかしここで目を閉じてしまったら、完全に寝過ごしてしまう。
未だ四肢を絡め取る微睡みを強引に引き剥がし、緩慢な動作で体を起こした。

枕元に横たわる時計に視線を滑らせると、普段起床する時間よりも10分ほど早い。妙にかさつく喉に軽く咳を繰り返しながら、ベッドを下りた。
中途半端に揺れるカーテンを雑に開け、窓も思い切って開ける。途端に流れ込む弱々しい陽射しといっそう冷たい空気に目を細めた。

遠くではタワーオブヘブンの鐘の音が鳴り響く。ここ最近は、早朝に塔に祈りに訪れる人間がいるらしい。定期的に聴いてきた鐘の音が、最近で聞く頻度が高くなった。
体を引きずるように着替えを済まし、朝食の準備の為に部屋を出た。





「いつもより早いのでは?」
「!」

ドアを開けるなり響いた声に、反射的に体の動きが止まる。ふわりと鼻孔をくすぐる焼きたてのパンの匂いに、ドアノブの冷たさが頭の片隅をつついた。途端に頭の芯が緩んでしまいそうな、そんな浮遊感にも似た気分になる。それを誤魔化すように、挨拶を返した。
――それは夢心地のような、ひどく不安定で不規則な喜びだった。

帰ってきた。ずっとずっと待っていた人だった。たまらなく焦がれて、会いたかった人だった。夢ではない。昔のように、彼は今、私の前で呼吸をしている。さながら子供のような喜びを抱いた。

だが、月日と共に意識に刷り込まれた現実が、それに歯止めをかける。鉛のように鈍い重さを伴う「常識」が、圧迫感を持って社会を突きつけた。

――私はずっと会いたかったけれど、彼はどうだろうか。
本当に、戻ってくることが、正しかったのだろうか。
確かにもう何年も前の事件だ。とは言え、火種はきっと容易くくすぶり煙を出す。誰かが噂をすれば、それは驚くほど早く広まり、簡単に孤絶されてしまうだろう。そうなった時、私はこの場所を守ることができるだろうか。
彼らを――傷と諦念を抱え続けた人たちを、凡々たる私がどうフォローすればいいのか。いや、フォローなどという、安いものでもない。もっと重く、深いものだ。
乾燥し、ざらついた喉が軋みを上げる。口元を押さえ、空咳を繰り返しながらドアを閉めた。

「風邪ですか」
「いえ……あ、別に体の不調はないんです」
「しかし今日は仕事があるのでしょう」
「マスクを付けますから、大丈夫ですよ。咳がちょっと出るだけなので」
「風邪を軽視するなと、貴女に言われたことがありますが」
「あ……」
「座っていなさい。朝食は私が準備します」

そう言われるが、一応今日は私が朝食を作る番だ。既に彼がある程度準備をしてくれたようでもあるが、だからといってそのまま甘えてしまうわけにはいかない。私が作る日なのだから、私がきちんとやるべきだ。思いダイニングキッチンの方へ向かうが、すぐに邪魔だと言わんばかりにリビングに流される。粘り強く訪れてはみるが、彼の答えが変わることはなかった。
仕方なく、というのもおかしな話だが、手伝いたいという私の意志すらさらりと流す彼には、大人しく座って待っているほかこちらもすることがなかった。

こうして朝食を待つのも、ずいぶんと久しい。Nと過ごしてきた3年間は、彼に料理を教えることもあり一緒にキッチンに立つことが多かった。最初こそ包丁の扱い方も危なっかしい彼だったが、今では私より上手いかもしれない。飲み込みがよく、基礎が身に付けば進んでレシピ本を買い集めて作るということもよくあった。思い返すと、ひどく懐かしい。彼との日々は自分に弟ができたようで楽しかった。ただ、この家で再び1人になった私に、彼はずいぶんと気を使っていたと思う。顔色を窺うように言葉を選び、いつも一歩引いたところで慎重に行動をとっていた。
私が笑ったことは何でも繰り返し、私が少しでも暗い顔を見せたものには、近付かないようにしていた。

――私が、悪かったのだ。彼の本心に気付けなかった。結果ひどく衝突したことが一度だけある。それも彼が私に謝ることで収拾がついた。
もっと、上手く対等に向き合うすべはなかったのか。
彼のそれはまるで、子供が親の気を引くように、必死に喜ばせようと――

「……ノト」
「!」

肩に触れた柔らかい温度に、沈みかかっていた意識が引き上げられる。いつの間にか並べられていた食事に我に返った。
そっと目の前に差し出される甘い香りのするカップに、首を傾げる。

「咳がひどい。気休めかもしれませんが」
「え……あ、すみません。大したことはないのに、気を使わせてしまって」
「貴女こそ、もう少し甘えたらどうですか」
「わ、私はそんな……帰って、きてくれただけでも、我が儘を聞いてもらっているようなものなのに……」
「!」
「そ……れより、Nを、まだ起きてないと思うので」

何故か急に気恥ずかしくなり、勢い良く椅子から立ち上がる。思いのほか大きな音を立てた椅子に、内心つい驚いてしまった。それらを誤魔化すように足早にリビングを出れば、幾分低い温度が肌に張り付いた。
廊下を抜け、階段を上る。もともと父が家族で過ごすために作った別荘なので、1人で過ごすには大きすぎる。部屋は空き部屋だらけだった。今まで誰もいなかった部屋に、いるべき人ができたと思うと奇妙な気分だ。
それは安堵かもしれないし、一方では途方のない社会に対する不安かもしれない。
ここで生きていくには、彼らは、あまりに重いものを背負っている。

「N、起きてる?」

ドアを指の骨で叩き、向こう側にいるであろう青年に問いかける。間をおいて、ドアが開いた。顔を覗かせた青年は、僅かに眉をひそめて唇を開く。

「体調、悪いのかい?」
「!」
「苦しそうだったから」
「ああ、うん。平気だよ。でも、ちょっと最近寒いから」
「今日は僕1人で本屋には行くよ。休んでて」
「それじゃあ本当に病人みたいでしょう」

笑いながら返すと、彼はどこか困ったように笑った。ドアが静かに閉まる音を聴きながら、階段を下り、廊下を抜け、再びリビングへと向かう。ドアを開ければ、先に席に着いていたゲーチスさんがこちらを見た。
視線が合うなり、気まずそうにNは足下に視線を落とす。
……やはりすぐには、和解も親子に戻るのも難しいものだろう。ぎこちなく感じる空気には、皮肉にも慣れてしまった。当たり前のような世界が、ないこの場所に、いつか「平凡」が来るだろうか。彼らにも、いつかそうなれる日が来るだろうか。

ほんの少しだけ、世界が遠のくような浮遊感に目を伏せる。
近くにあるはずなのに、ひどく遠い。共に生きるという喜びの代償が、抱えたモノの重さを知るということなら、それは途方のない迷路に放り込まれたも同然だ。私は――。





20110904




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