powerless person

ただ、愛し方を知らなかっただけだ。赦されるのならば、その傍らにいたいと願った。傲慢で独りよがりな、幼稚な願望だった。

馴染んでしまったその明るさも匂いも音も、指先に力を入れればいとも簡単に握り潰される程度のものだ。視界に掠める薄い背中に目を細める。頭と胴を繋ぐ細い首に指をかける夢を見た。憎いわけなどない。
ただ、内在する明るみへの焦がれるような感情に、引きずられただけだ。





宙に音が投げ出された。寂れた冬空がいっそう冷たさを増し、音は所在なさげに辺りに舞う。氷張りのように薄く色素が抜けた空色に、吐息が白く曇った。
高めの音階が鼓膜に届き、静かに脳に浸透していく。音階は空間に波紋した後に、徐々にその輪郭を溶かしていった。余韻が思考で凪ぐころにはまた1つ、高い音階が弾き出される。

冷えた指先を温めるように息を吐きかけ、足元にある籠に手を伸ばした。空になった籠は、思いのほか軽い。ちょうど洗濯物を干し終えた私は、音がするリビングへと足を運んだ。
最近ではすっかり冬の色が濃くなってきた。寒さで悴む指先をもう一度さすりながらドアを開ければ、暖房で暖まった空気が全身を包む。体の内側が溶けていくような感覚に無意識に弛緩し、吐息が零れた。ドアを閉め、首に巻いていたマフラーを外す。
同時に再びピアノの音が鼓膜を突いた。

リビングの片隅には、亡き母が残していったピアノが佇んでいる。私は音楽の知識や才能に乏しいので、幼い頃、鍵盤を叩いて遊んでいた程度でしかそれには触れていない。何より元は母のものなのだ。母が亡くなってからは、余計にピアノに触れる機会が減った。すっかりインテリアとなってしまったピアノは、ただ懐古を抱えて沈黙しているだけだ。しかし長い間使われなかったその鍵盤は、つい最近日の光を浴びるようになった。
ピアノの傍らに立つ影に苦笑が零れる。寝起きだからか、緩く波打つ髪は肩の辺りで普段よりも跳ねていた。

――彼は再び鍵盤へと指を伸ばした。特に何か曲を弾くわけではない。ただ、二つの鍵盤を弾くだけだ。最も、私自身、曲についても関心が強くはないので、何かの楽曲だとしてもわからない。
僅かに躊躇った後に、立ち尽くしているだけの彼の側へ歩を進める。すると私の存在に気付いたのか、彼はこちらに視線を向けた。彼の夕焼けのような緋色の瞳が細められる。

「おはようございます」
「……おはようございます」
「言ってくだされば、私も手伝いましたよ」

少しだけ咎めるように口を開いた彼に、私は曖昧に笑って返した。

彼と出会ったのはほんの半年ほど前だ。ふらりとどこからともなく現れた彼は、いつの間にかここに居候のような形をとっていた。不思議なほど、出会ってから今日までの日々は『何となく』過ぎてきたのだ。疑問を抱くわけでもなく、だからといって気にかけるわけでもなかった。ただ、そこに『何となく』いる。
知らず知らずの内に時間の共有者になっていた。
だからだろうか。
何となく始まった私たちはきっと、気付いたら終わってしまうような繋がりだと思った。何となく、いつの間にか、彼はいなくなってしまう。そんな気がしていた。終わりは見えていた。
それは今日の夜かもしれない。明日の朝かもしれない。しかしそこに未練はない。彼は何も言わず去っていくだろうし、私は彼がいなくなっても変わりなく過ごすだろう。
私たちは奇妙なまでに、沈黙した関係だった。

「これでも人並みのことはできますよ」
「あはは」

朝食をとった後、彼はテレビを眺めながらうたた寝していた。力の抜けた穏やかな表情だったので、起こすことが躊躇われたのだ。敢えて声をかけずにそっとしていたのだが、裏目に出てしまっただろうか。
白と黒の鍵盤を撫でながらこちらを向く彼に、私はただ苦笑を浮かべて誤魔化すだけだった。何とか別の話題はないだろうかと思案し、彼の指先を見詰めながら口を開く。

「あの、ピアノ、弾けるんですか?」
「!」
「意味はないんです。私、ピアノ弾けないから。何かの曲なのかなって」
「ああ、私も弾けませんよ」
「じゃあ、今のは」
「……そうですね」

彼が少しだけ体をずらし、私に鍵盤が見える位置に来るよう促す。それに従うまま傍らに寄り、鍵盤に触れる彼の指を覗き込んだ。
「ソ」と「ド#」の位置に指がある。
彼は指に力を入れた。二つの音が同時に弾き出される。しかし音は上手く噛み合わず、バラバラに宙を漂った。不安定に波紋し、暗く沈んでいく。

――不協和音。

そうだ。不協和音だ。落ち着かない。不安な音色だった。

音が消え去ったところで、私は彼を見る。見上げた位置にある赤い瞳が、私に向けられる。ただ意外にも早くに目が合ってしまい、内心僅かに焦燥する。それを気取られまいと、私は早口で言葉を紡いだ。

「今のは?」
「……」
「何かの曲ですか?」
「いや」

彼は私から視線を外す。そして間を置いた後に口を開いた。


「私の名前です」


頭の中で音が弾けて砕ける。一瞬意味がわからず、私は目を瞬いた。
喉元まで何か、形容し難い感情が込み上げてくる。それを必死に飲み下した。いつの間にそらされていた視線が私に向けられていたのか、逃れるように顔を伏せる。
彼は再び和音を鳴らした。

「私の、名前です」
「……なまえ」
「……」

反芻して首を傾げる。微かに微笑む彼の瞳は、陽の光に揺れた。
名前。不協和音。名前。不協和音を意味する名前。
体が強張った。
名前とは親から初めて与えられる唯一無二の至宝だ。何者にも侵されることも奪われることもない。自分を自分だと決定付けるたった一つの固有名詞である。名前とは宝物なのだ。
なのに、何故。そんな意味があるのだろうか。

彼の手のひらが頬に触れる。冷たいその感触に物悲しさが去来した。ほとんど無意識にその手に触れようと指先が震える。しかしそれはすぐに離れた。

「……私は意味など、求めていませんがね」
「!」
「いえ、まさかそんなに困惑された表情をするとは予想外でしたので」
「そんなことは……」

言いながらも言葉を飲み込む。彼は僅かに笑い、ピアノから離れた。スペアミントの髪が、風に柔らかく揺れる。

「ああ、そうだ。今日はあまり気温が上がらないそうです。風邪を引かないよう、暖かい格好でいなさい」
「! じゃあ、お昼と夕飯は温かいものがいいですね」
「貴女に任せますよ」
「……」

先ほどまで彼が触れていたピアノの鍵盤を見詰める。
そっと目をそらし、私は再び彼へと視線を向けた。同時にこちらに彼の緋色の瞳が向けられる。不意に目が合い肩に力が入った。そんな私に、彼は苦笑しながら言葉を紡ぐ。

「ああ、やはり昼食は温かいスープがいいですね」
「!」
「夕飯をシチューにしましょう」
「任せてください」

私の返答に、彼はただ静かに目を細めた。







20101209
修正:20110816



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -