Countdown

※本編前の話
coward gardener の続き


きっかけなんてものはなかった。ただ、ひたすら、積み重ねてきた毎日だったのだろう。

彼を見つけてから5日が過ぎた。最初はまともに言葉を交わすことも、食事をとることもしなかった。まるで生きることを放棄したように、彼は無関心な目で私を見るばかりだったのだ。しかし最近になり彼は少しずつ体調が回復してきた。食事もとれるようになった。食べられる量も、人並みに増えた。体調が良くなったからなのか、多少口数が増えたようにも思えた。だが7日目で熱を出した。熱は2日で引いたが、今度は過呼吸を起こした。疲労。心的負荷。捻れた思考。彼の不調は、それを要因にした節があるように思える。何があって彼はここに辿り着いたのだろう。
何に疲れていたのか。何にストレスを感じていたのか。何に追い詰められたのか。
私は何も知らない。

そして彼と出会って2週間、ぎこちない会話が少しずつまともになってきた。何故かはわからないが、彼が敬語を使うから、私も敬語を使うようになっていた。その頃には彼の体調もほとんど良くなった。彼に、空いている部屋をあげた。至極自然な展開だった。ソファーで寝るのは疲れないかと、問いかけた時にほんの僅かに苦笑した横顔に、反射的に言葉が出たのだ。彼は驚いたように赤い瞳を丸くした後に、「お言葉に甘えましょうか」と小さく笑った。
まるで小さな花が風に揺れるような、静かで穏やかな顔だった。

1ヶ月が経つと、一緒に食事を取るようになった。相変わらず推し量ったような距離感は拭えない。でも、会話は増えた。この頃だろうか。彼には既に妻と子供がいることを知った。果たして妻子持ちの男性をこんな容易に家に入れて良いのだろうか。疑問に感じながらも、それも彼の妻は亡くなり子供とは絶縁状態だという言葉に疑問以上の問題があることに気付いた。同時に、彼には既に愛する人がいるのだと知ると、何故妙に落ち込む自分がいた。
そろそろ晩夏に差し掛かるのに、まだまだ暑い日が続いている。

2ヶ月。彼が食事を作るようになった。朝食の準備をしようとキッチンに向かったところ、彼が先にキッチンに立っていた。その姿を初めて見たときは酷く驚いたものだ。それを素直に言うと、彼は眉をひそめながら「愚問ですね」と私の額をぺちんと叩いた。シンプルな味付けは好きだ。体調を崩すことも、もうなくなった。顔色も出会った当初と比べるとだいぶ良くなった。初秋の涼しい風が、どこか物悲しく感じる。

3ヶ月。そこにいるのが自然になった。私は追い出すつもりはない。彼も何も言わないから、一緒に過ごすようになった。この頃から、たまに食事の片付けで、意地悪をする。食器をわざと私の届かない高さに置くのだ。非難すると彼は素っ気なく成長期はもう終わってしまったのかと首を傾げた。私はこれでも成人女性の平均的な身長だ。ムッとしながら無言で椅子を引っ張り出して食器を取る。すると彼は、決まって子供を宥めるように私に接した。それが妙に心地良く思えて、そのやり取りが実は好きだった。しかし反面、対等ではないような気がして、たまに意地を張ったり、必死に大人ぶったりした。もう社会人を何年もやっているはずなのに、自分の幼稚さには嫌気が差した。
その頃には秋も深まり、街の落葉樹が赤い色に染まり始まる。地面を覆う赤い葉は、沈黙を守って冬の訪れを待っていた。

どんなに探したところで、やはりきっかけなどと言えるようなものは見当たらなかった。一緒にいるうちに気付いたら情が移って、何となくそばにいることが当たり前になったのだろう。
だが、それでもある一定の距離を保とうとする自分たちには気付いていた。互いの名前を口にすることはおろか、名乗ることすらしなかった。
それが境界線だと思ったのだ。
そこから先に踏み込んだら、きっと未練しか抱かない。
彼は決して永遠にここにいるわけでもなければ、明日にでも消えてしまう可能性がないわけではない。だからそれは暗黙の了解にして2人の不文律だった。





「ピアノが、趣味ですか」
「!」

ふと、彼が口にした言葉に、私は口に運ぼうとしていたマグカップを手元で止めた。白い湯気が視界の片隅で細く長く伸びる。最近では晩秋に差し掛かり、いよいよ冬の足音も間近に聞こえるようになった。凩が冷たく乾いた空気を運び、少しずつ世界を冬に染め上げている。そろそろ暖房器具を本格的に使う季節だ。何処にしまったのだろう。
そんなことを思いながら、彼の問いを頭の中で反芻した。

「いえ、それは母のです」
「ああ……」
「何でも音楽が好きらしくて、父がこの家を買ったときに母のためにプレゼントしたそうです」
「貴女は弾かないのですか」
「あはは、私は楽譜読むのも苦しいくらい音楽に触れてないので……」
「確かに、芸術には疎そうですね」
「こ、これでも、中学までは絵画コンクールで」
「何年前ですか」
「え、じ……10、年……」
「……」
「哀れむような目で見ないでください」

視線をそらしながら言うと、彼は僅かに笑った。
では、貴方はどうなのかと負けじと問いかける。彼は一度リビングの隅にあるピアノを視界に収めたあとに言葉を紡いだ。

「父方の血筋に、音楽家が多かったようです」
「じゃあ、何か楽器弾けるんですか?」
「まさか。若い頃は家の中でひたすら勉学に打ち込むだけの生活しかしていません」
「なんだかすごく偏差値高い大学を卒業してそうです」
「……さあ、どうだろう」
「?」
「親の期待は異常で、私がそんな彼らに見限られたのは思いのほか早い段階でしたよ」
「……!」

赤いの瞳が陰る。彼の唇が零す言葉は、いつも自嘲じみていて、暗く、漠然としている。
そこからぼんやりと、彼の家庭環境があまり良くないことは推測できていた。では、その亡妻や子供とはどうだったのだろう。いつもどこかで好奇心がくすぶっていた。ただそれが如何に不躾なことかも知っていた。わかっていた。そのたびに自己嫌悪に襲われた。

「……だが、現実なんてその程度だ」
「!」
「同じ血を持っているというだけで家族は他人だ。他人にはいくらでも非情になれる」
「そう、ですか」
「貴女のように『普通』に生きてきた人間には慣れない話でしょう」
「……」
「極端な話、私は貴女を躊躇いなく殺せます。貴女が死んでも、何の感慨も抱けないでしょう」
「あはは、酷い、なあ」
「思ってもないことを」

冷たく笑って見せる横顔に、心臓が軋んだ。
それに途方のない距離感と隔たりを感じる。
彼は、ここで何を見ているのだろう。彼が見ている景色は、一体どんなものだろう。――そんな冷たい言葉で決めつけないで欲しい。私は、すぐそばで、ここで、見ているのに。彼は、まるで私などいないように言葉を紡ぐことがある。私は、ここにいるのに。

その横顔から、視線を落とす。ふと、視界に銀色がちらついた。彼の、薬指。そこにはめられた、飾り気のないシルバーリング。……今まで、付けていただろうか。真新しく映るそれに、無意識に視線が固定される。

「何か」
「あ……あの、えっと」

慌てて視線を持ち上げるが、彼は私の目が指輪に止まっていたのに気付き、目を細める。

「指輪、してたんですね」
「欲しいのなら、貴女に差し上げますよ」
「何言ってるんですか」
「冗談です。らしくもなく、感傷に浸っていただけですよ」
「!」

ああ、ではやはり、亡妻との結婚指輪だろうか。白い指の付け根で光る銀色を見詰める。彼は遠くを眺めるように指輪を視線の高さまで持ち上げた。
一体どのような思いを抱いてそれを見つめているのだろう。
懐古だろうか。悔恨だろうか。
どちらにしろ、彼にとってみれば「今」など過去を覗くためのスコープにすぎないのだろう。
それはまるで、明晰夢だ。

「貴女には、恋人なり婚約者なりいないのですか」
「そういうこと、聞きます?」
「これは失礼」

可笑しそうに笑ってみせた彼を睨んだ。しかしすぐに、表情が綻んでしまう。どうせなら、ずっとここにいてくれればいいのに。そう小さく願う私がいた。

冬を迎える、ある日の話だ。



20110608
修正:20120314




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