coward gardener

晩夏とはいえ、まだまだ残暑は厳しい。肌に纏わりつく熱に、息を吐いた。一度立ち止まり、額の汗を拭う。遠くが陽炎に揺れていた。
降り注ぐ蝉時雨に、焦げるアスファルト、青々とした緑。
どれをとっても、おそらく生命力に満ち溢れていた季節だ。肌がチリチリと音を立てて焦げていくような錯覚に、つい影を求めて街の隅を歩く。日を遮る影は濃く、陽向との気温差に肌が弛緩した。
……早く家に帰らなければ、おそらく食材がダメになってしまう。
もともと食材を調達するために街に出てきたのだ。この季節は食材が長持ちしないので、こまめに消費しては買い足さなければならない。
仕事場である本屋に寄ることを頭の中で取り消しにし、真っ直ぐ帰路を辿ることにした。

見慣れた街並みは数ヶ月前まで桜や花々を称え、今は深く濃い緑を着飾っている。季節が巡るのは早いものだ。私がここに来たのが大学を卒業してすぐだったから、もう1年半になる。そんな感慨を抱きながら、足早に道を行った。



それから私が『あるモノ』を見つけたのは、家の近くの木のそばだった。
ちょうど木陰になっている淡い影の空間に、自然外の質を放つものがある。影の中で、風により透明に流れる薄い緑に、色素に乏しい四肢。一見すると絡繰り人間を思わせる無期質的な光景に息を呑む。人、であるようだ。純粋な疑問と僅かな好奇心、少しの恐怖が発露した。
そして躊躇いながらも、ゆっくりとそちらへと足を進める。

自分が如何に不用心かはわかっていた。万が一にも質の悪い人間だったら、被害を被るのは火を見るより明らかだ。しかし反面、体調不良の人間だったらと思うと、放ってなどおけない。
もしかしたら旅の途中でここに行き着いたのかもしれないし、この辺りに用事があって来たのかもしれない。ひとまずどれにせよ具合が悪そうに見えるのだから、いざとなったら逃げられるだろう。
思いながら、歩を進めるスピードをあげる。蝉の鳴き声が、頭の中で延々と反響した。あと10歩、というところで、木の影に寄りかかっていた人物がこちらを振り向いた。

「――!」

真っ赤な瞳が向けられる。影の中で爛々と光る目が、鋭い警戒心を抱いていた。

「あ……あの」
「……子供か……」
「え」

これでも成人しているのに。
初対面のまさかの第一声に、複雑な気分になる。しかしその瞳はすぐにそらされた。背中が向けられる。否が応でも、拒絶の色が濃く滲み出ているのがわかった。乾いた笑いを零しながらも、探るようにその容姿を確認しようと見つめる。
スペアミントの髪に、赤い瞳。年は、どのくらいだろう。見ても判別しづらい印象を受ける面立ちだった。……だいたい30代後半くらいだろうか。
しかしそれよりも。
顔色がずいぶんと悪い。瞼の下にできた隈は濃く、頬は僅かに痩けていた。肌はおおよそ生気というものが感じられないほど白く、衣服から覗く腕は細い。何よりこんな真夏日の下、汗1つ浮かんでないのだ。
医者でなくとも、危ないことはわかった。

「あの、具合悪いんですか?」
「……」
「救急車呼びましょうか? 私の家すぐそこなんです。だから来るまで休んで……」
「あの家は」
「え?」
「貴女の……」
「えっと……はい」

こちらを見ずに彼は言う。抑揚に乏しい声だった。体の芯が張り詰める。こめかみを汗が伝った。

「すぐに立ち去ります」
「でも、具合が……顔色も悪い、ですし……。あ、変な気遣いとか大丈夫です。1人暮らしですから、だから救急車来るまで休むくらいは」
「お構いなく。そのようなもの、無用です」

それでも、放っておいてはいけないだろう。男性の青白い顔からは表情が抜け落ちる。悪寒が走った。木陰の傍らにしゃがみこみ、もう一度問いかける。しかし返ってくる言葉が変わることはなかった。
……いっそのこと救急車を呼んでしまった方がいいだろうか。何を言っても無視されてしまうので、バッグの中を漁り、携帯を取り出した。

「なら、せめて救急車だけでも」

そう、言いながら携帯を開いた時だ。何の前触れもなく、腕が伸びてくる。手首を容赦なく掴み上げるそれに息が詰まる。ゾッとするほど冷たい手だ。ミシミシと握力が骨を軋ませ、私の行動を阻止した。目の前に迫る赤い瞳に瞠目する。

「な、なに」
「余計なことを」
「え……」
「放って置けばいいだけの話だ」
「そんなことできるわけ」
「偽善者が――」
「……!」

頭の中を、強い力で殴られた気がした。ぐらりと目の前が揺れたような感覚に、唇を噛む。私まで暑さにやられてしまっただろうか。不自然に脈を打つ鼓動に、息が苦しくなった。喉の奥が何かに締め付けられる。細く息を吐き出しながら、手のひらに力を込めた。蝉時雨が遠ざかる。
善いことをして自己陶酔に溺れたいだけだ。
全身に走る激しい嫌悪感と羞恥心に、呼吸が震えた。思考の片隅には憎悪と苛立ちが顔を出す。それに携帯を落としそうになった。初対面の他人の身勝手な言葉に、憤りを覚える自分がいた。
我に返っては掴まれた手首を強引に振りほどく。汗が一気に引いていく。頭の奥で金属が擦れるような音が反響した。

「……救急車、呼びます。いけません。そんな体じゃ、危険です」
「!」

――おかしい。指先が熱を忘れていく。冷たい。しかし喉が焼け付くように熱い。耳鳴りがした。

「顔色が、そんなに悪いのだから」

これは当たり前のことだ。偽善ではない。言い聞かせるように頭の中で念じた。まるで言い訳のような言葉の羅列に、無意識に怯む。言葉を発するたびに息が苦しくなった。向けられた瞳から逃れるように理由を探す。侮蔑するような色を向けられ、激しく動揺する弱い自分がいた。

「だって、そんな、体でどこにも行けないでしょう」
「……」
「それに、人を放っておくなんてできるはずが」
「一般論を振りかざすしか能のないバカな人間は嫌いですよ」
「!」
「貴女、他人の期待にはまともに応えられないような劣悪な人間でしょう」

――何故、そんなことを言われなければならないのか。とっさに言い返そうと口を開く。しかしそれは形にならず、呼吸として宙に霧散する。喉がヒュッと鳴った。言い返したいにも言葉が思い浮かばない。図星に思えたのだ。
父のこと、母のこと、今の自分。死に物狂いで我慢して「頑張った」結果がこれだ。
得体の知れない焦燥感が思考を焼いていく。怒りは一瞬で落胆に変わった。父と母の顔が脳裏に浮かび上がる。
目の前がぐらぐら揺れた。息が乱れる。指から力が抜け、携帯が地面に落ちた。

「あ……」

――おかしい。苦しい。息ができない。息とはどうやってするのだったか。吸って、吐く。吸う? 吸うってどうやるのだろう。どうやって吐くのだろう。焦れば焦るほど、呼吸は苦しくなっていく。
どうやって今までやってきた? ダメだ。上手くできない。吸わなければ。苦しくなる。次は吐かなければ。ダメだ。分からない。苦しい。苦しい。苦しい。
――また、ダメになる。

「ゆっくり息をしなさい」
「!」

口元に、買ったモノが入った袋をあてがわれる。買ったばかりの野菜が地面を転がった。

「吸うばかりでは、苦しくなる」
「……」
「……吐き出すことを、思い出しなさい」

吐き出すこと。
頑張って。頑張って。頑張って。そうして内側に澱が溜まっていく。降り積もっていく。積まれていく。
――それを吐き出すことをなんて、知らない。
弱音。不安。恐怖。本音。吐き出したりしたら、迷惑をかけてしまう。嫌われてしまう。見限られてしまう。私は。

「……は、あ」
「落ち着きましたか」
「すみま……せん」
「……」

赤い瞳が細められる。それに何故か、無性に泣きたくなった。蝉時雨が思い出したかのように鳴り出した。
初対面の、寄りによって自分が助けようとした具合の悪そうな人に、まさか過呼吸だなんてそんな醜態を晒すだなんて誰が予想できるだろう。目の縁に溜まった涙を拭いながら、再度頭を下げた。
過呼吸自体、何度かなったことはあるが、大人になってからはすっかりなくなったものばかりだと思っていた。とはいえ私の場合はストレス性のものだ。最近は暑い日ばかり続いているし、もしかしたら疲れが溜まっているのかもしれない。

足下に転がっているトマトやジャガイモを拾いながら小さく吐息をついた。同時に男性はふらつきながらも立ち上がり、去ろうとする。本当にそんな体でどこかに行くつもりなのだろうか。下手をしたら命に関わるかもしれない。それをとっさに引き止めた。

「あの」
「!」
「救急車、は」
「……」

彼は眉をひそめ、思案するような仕草を見せる。後に呆れたように息を吐いた。おもむろに私に赤い瞳が向けられる。反射的に怯む体が、一歩だけ後退した。

「あの」
「……案内を」
「!」
「貴女の家、ですよ。まだ、見つかるわけにはいかない」
「え?」
「こちらの話です」

ふらつきながら一歩だけ進む背中に、目を見開く。慌てて荷物を抱え直した。

「こっちです」

偽善者、臆病者、小心者。
それを絵に描いたような私が、初めて誰かに自ら関わった。あわよくば助けることができたら。なんて幻想を抱いたのは秘密だ。
積み木のように、不安定に積み上げられた偶然だった。







20110528




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