Dearness


惹かれていたのだと思う。
理屈も理由もなく、ただ、あの人だから惹かれた。
もしあの瞬間に出会わなかったとしても――もっともっと早い段階で出会ったとしても、きっと惹かれる。惹かれて、いた。
しかしそんなことを今さら考察しても仕方がない。

愛慕していることには、変わりはないのだから。




「ノト、届いたよ」
「うん、新着のコーナーに並べておいて」
「わかった」

結い上げた萌葱色の髪を揺らしながら、彼は両手に本を抱えてぱたぱたと店の中を歩き回る。エプロンが衣擦れの音を立てた。最初こそだとだとしく映ったその姿は、今では作業にも慣れて何の違和感もない。
慣れた手付きで本を並べていく背中を視界に収めながら、右手に持ったレシートを眺めた。
……今月の入荷分は今日で全部だろう。
一通り店の中を見回し、「あの頃」とは程遠い、整備された本屋の中に息を吐いた。

「N、一度休憩しよう」
「ああ、うん」

こちらを振り向く湖面の瞳が、穏やかに細められた。
――彼が出て行くのと、この子は入れ替わりで私のもとを訪れた。そこに誰のどんな意図があったのかはわからない。もしかしたら、なんて詰まらない空想を抱いたこともあった。そのたび傲慢さに自己嫌悪した。何よりも、この子は何も言わなかったのだ。だから私も何も追求しなかった。ただ、変わったことがあったとしたら、唐突に働きたいと言い出したこの子に、本屋の仕事を手伝ってもうようになったくらいだ。

『――僕はこのままじゃダメなんだ』
『……』
『社会で、生きていけるようにならないと』
『社会で、生きていく?』
『いつまでも、誰かの厚意に甘えて、ずるずると閉じこもって生きたくはない、から』
『……じゃあ、私と社会復帰のリハビリでもしようか』

閉じこもっていたのは、私も同じだ。現実から逃げてばかりいた。目をそらしていた。
だから良い機会だったのかもしれない。
お得意様しか相手にしないような閉塞した本屋だった。気まぐれに開けて、依頼のあるときだけ売って、どこまでも社会から逃げていた毎日だった。
もちろん一般の本屋として再開して簡単に上手くいくなど、思ってはいない。それでも、少しずつで良いから外に向かって生きていきたいと思った。詰まらない上に些細なことかもしれない。それでも、今の生活を変えられたらと思う。
掃除をし、並びを変え、新しい分野の本も取り入れ、そうして再スタートをして、もう数年が経った。

カウンターに並んだ椅子に座るよう、Nに促せば、彼は小さく笑いながら座った。……昔と違って、表情が柔らかくなった。もちろん今日までに何もなかったわけではない。擦れ違いや食い違いから衝突することもあったし、一時は酷く情緒不安定なこともあった。今の安定こそが、この子の感情の変化の現れなのだろう。
紅茶でも用意しようかと立ち上がると、不意に店のドアが開いた。

「おや、休憩中かい?」
「!」
「アロエさん、こんにちは」

気さくな笑顔を浮かべながら入ってきたアロエさんに、ホッと力が抜けた。お客と思ったのか、Nも一瞬だけ身構えた。しかしすぐに安堵に近い表情を浮かべ、椅子に座り直す。そんな私たちの様子に、からからと笑いながらアロエさんは近くの椅子を引っ張り出して座った。

「休んでいるところ悪いね」
「いいえ、アロエさんなら大歓迎ですよ」
「アハハハハ」
「それで今日はどんなご注文ですか?」

軽く首を傾げながら尋ねると、アロエさんは一瞬だけ目を丸くした。次いでニヤリと笑みを浮かべ、右手に抱えたものを取り出す。

「今日は残念ながら本じゃなくノトに用があるのさ」
「私?」
「そう」

何ですかとその顔をまじまじと見詰める。アロエさんは焦らすように私とNの顔を見た。そして取り出したものを開く。

「ノト、お見合いしないかい?」
「し、しませんよ!」
「今度はあんたの好みだと思うんだけどねえ」

眉をひそめながらNに同意を求めるアロエさんに、表情が引きつる。Nもまたどこか眉間に皺を寄せては首を傾げた。……別に今日が初めてなわけではない。今までにも2回あったことだ。

「あんたも結婚を考えてもいい年だろう?」
「私はいいんです」
「……まったく。結婚もしてないのにそんな大きな子供がいていいのかい」
「子供って……私は別にNを養ってるわけじゃありませんよ」
「どうだかねえ」
「何ですか」
「まだ、待ってるんだろ?」
「――!」
「もう、何年も経つけど、まだ、あの男を待ってるのかい」
「……」

――待っている。
確かに、待っているのかもしれない。帰ってくるかどうかなどわからない。彼がいなくなったあの空間に、否応無しに慣れている自分もいた。寂しさはきっと薄れているし、Nがいるから孤独感もない。それでも、「いってきます」と言った彼の言葉に縋っている自分がいる。

「――聞いたときは、寝耳に水というか、正直、気付かなかった自分に腹が立ったよ」
「……」
「騙されてる、利用されていた、そんな言葉しか思い浮かばなかった」
「あの人は、違いますよ」
「……あんたには、母親の分も倖せになって欲しいんだよ」

どこか困ったような笑みを浮かべたアロエさんに、ギシリと体の奥が軋む。
だがこれは、どうしようもないのだ。彼がしてきたことは紛れもない事実で、それに対する社会的評価は知れている。私の感情が単なる贔屓目であることは確かだ。ただ口を閉ざして私は俯く。どこか苦しげに息を吐いたアロエさんが、「今日はもう失礼する」と椅子から立ち上がった。

「恋は盲目って言うからね」
「からかわないでください」
「はいはい。仕事、頑張りなよ」
「はい、ありがとうございます」

背を向け、その姿はドアの向こう側に消えていく。口にすると、やはり無意識に喪失感が襲ってくる。彼が確かにいたという寂しさに、胃がよじれそうになった。どうしようもない虚しさが去来し、唇を噛んだ。

「ノト」
「なに」
「……待つんだろ?」
「!」
「それでも、やっぱり待つことを止めないんだろ?」
「私、諦めが悪いから」
「……」
「たとえ諦めるなんて言ったって、やっぱり無意識に期待するんだろうなあ」

――昨日も今日も無理でも、明日は? 明日はもしかしたら。そんな「もしも」を繰り返し、時間を刻んでいく。そのたびに落胆する。そしてまた期待する。まるで機械仕掛けのような感情の輪廻に、寂寥感だけが降り積もる。

「……気持ち、切り替えてこう……」

頭を振り手のひらを握り締める。側にいるNが懸念を宿した瞳でこちらを見た。それに苦笑を返した。

「紅茶淹れてくるね」
「ああ、切らしてるよ。昨日ので最後だった」
「あらら。じゃあ気晴らしついでに買い物行ってくる。Nも行く?」
「いい。僕はあと少しだけ残ってるのを片付けとく」
「そっか。じゃあ、留守番よろしくね」

バッグを肩に掛け、ゆっくりと店の外に出る。同時に日差しの眩しさに目を細めた。もう季節も何度巡ったのだろうか。暖かな春の日差しに、心地良い風が吹く。地面を柔らかく蹴り、行き着けの食品店に向かった。

場所はすぐ側なので5分もしないで着く。それに店主の方とも顔見知りで、よく負けてもらうことが多いのだ。いつものように必要な物を手に取り勘定を済ます。おまけで手作りのクッキーをもらった。崩れないよう慎重にバッグに入れ、帰路を辿る。
そうして右手に持ったバッグを持ち直し、数歩進んだ時だった。

視界に、見慣れない女性が映る。もちろんこれといって奇抜な点はない。清楚で、静かな印象の女性だ。ただ、この街ではあまり見かけない顔だと思う。妙に目を引くその女性に足を止めると、彼女と目が合った。
――見たことのある、湖面の瞳だった。
ゾクリと背筋に何かが這う。一瞬だけ呼吸を止めると、女性は薄い唇を開いた。

「こんにち、は」
「!」
「本屋の方、ですよね」
「はい。こんにちは」

湖面の瞳が穏やかに細められる。その顔立ちに既視感を抱いた。現実味が不意に遠退き、瞠目する。彼女は静かに言葉を続けた。

「ここ、いいところですね」
「あ、はい。私もここに引っ越してきてずいぶんと経ちますが、本当にいいところだと思います」
「……この街に、わたしの大切な人、帰ってくるんです」
「!」
「わたしの、ところじゃ、なくて、わたし以外の、ところに」
「あの……」
「わたしが、一番彼を想ってるから」
「!」
「わたしを彼は一番、想ってくれてたはずだと、思ってました」

風が吹く。女性の貌が髪に隠れた。

「だけど、もう違うから」
「大切な、方なんですね」
「でも、わたし」
「……?」
「だから、倖せに、なって、ほしくて」
「!」
「倖せに、して、ください。きっと、大丈夫だから、きっと、倖せ。わたし、充分だから、もう、倖せに、なって――」

突風が土埃を巻き上げた。春一番だろうか。思わず目を閉じると、再度女性の「倖せになって」という言葉が頭に響いた。少し間をおき、風が止んだところで目を開ける。しかしそこには、人影1つなかった。
――そんな、白昼夢みたいなもの。
心臓が跳ね上がり、鼓動が速さを増す。
『倖せにしてください』?
息を呑み、バッグを抱き締める。何かに急かされるように、早足で道を進んだ。

「あ、お帰りノト」
「ああ……ただい、ま」
「どうかしたのかい?」
「ううん。ちょっとね」
「そう、それより紅茶、僕が淹れてくるよ」

荷物を受け取る彼の手に視線を落とし、息を吐いた。
白昼夢、なんて。
果たして疲れているのだろうか。最近無理を重ねたつもりはないのだが。備え付けの小さなキッチンに消えた背中を目で追いながら、椅子に腰を下ろした。
――すると店の呼び鈴が鳴った。
まだ開店時間ではないのだけれど、お客だろうか。店の前の看板はまだ準備中にしといたはずだが。
思いながら、慌てて椅子を片付けて入り口の方へと視線を向けた。

「……ずいぶん、綺麗になりましたね」
「!」

何の前触れもなしに発せられた声に、息が詰まる。懐かしい響きが鼓膜に触れ、眩暈がした。そばにあるテーブルを支えにしながら、震えた声を絞り出す。

「やだな……また、白昼夢」

熱を持った目元を擦る。ドアが閉まる音が響いた。嘘だ。足音が近付いてくる。手が伸ばされる。くしゃりと私の髪を撫でた指先の感覚に、視界が滲んだ。違う。夢じゃない。嘘。嘘。嘘。違う。

「あ……っ」
「相変わらずですね」
「うそ、嘘、だって、だって私、そんな」

昨日も一昨日も、来なかった。今日も来ないと思った。でもそのたび落胆した。だって、だってムンナが見せる夢だとか、現実ではなかったら寂しい。夢ですら会うことなど叶わなかったのだから。嘘は嫌だ。でも嘘じゃない。

「私、ずっと、待って、待って、でも」
「仕様のない人ですね」
「……っお帰り、なさい」

あの時と同じように、苦笑混じりの言葉が優しく響く。懐かしい匂いにボロボロと涙が零れた。嘘じゃない。帰ってきた。キッチンから戻ってきたNが、ただ黙って駆け寄ってきた。
頭の中で、先ほど会った女性の「倖せになって」という言葉が蘇る。

触れる体温にしがみつき、その手に舞い降りた倖を包んだ。


「――ただいま」



I stay with you.



end
20110807




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -