selfless happiness

まるで何もなかったかのように食事を取り、いつものように夜が更ける前に自室で横になる。何の変化もない。不変にも思えた私たちの日常だった。彼は特に変わった様子を見せなかったし、私もまた必死に平生の自分であろうとした。しかしそうあろうとするほど、手に入れた遺書を彼に渡す機会を遠ざけているような気もした。いつ、どこで、どのタイミングで、彼にこれを渡すべきかわからなかった。ずるずると引き伸ばすように時間は過ぎていき、結局「おやすみなさい」という言葉と共に部屋にきてしまった。

ベッドの上で膝を抱えながら、手のひらの中で、小さな皺が刻まれ古びた封筒を見る。時計の針の音が、途方もなく遠くから聞こえるような錯覚を覚えた。
彼は一体どんな思いでこれを読むのだろう。
それを考えるたび、頭のどこかで渡したくないと願う私が甘く囁いた。彼女の本心を知らなければ、彼はおそらく彼女の死を業として背負い続ける。自分自身を責め殺し、精神を擦り減らし、救いもないまま生きて、死んでいくのだろう。そんな無情な時間を、彼に架すことなど誰が願おうものか。

「しっかりしなきゃ……」

救いたいと願ったのは私だ。彼を解放するのだ。彼女から。私から。彼自身から。総ての柵から。
――もう、「寂しい」などというワガママは言わない。
視線の先にある、遺書を握る力を緩める。
途端に、窓ガラスが不自然にカタカタと揺れた。風だろうか。カーテンを退け、窓の外を見る。未だ雪が残っている外の世界は、月明かりに青白く染め上げられている。その中にぼんやりと、2つの影が揺れていた。
――心臓がゴトンと蠢く。
息が詰まる。嘘だと頭の中で否定した。苦しい。ダメだ。まだ、認めたくない。嘘だ。こんな呆気なく。嘘だ。こんなの。
弾かれたように部屋を飛び出す。着込みもせず、裸足のまま廊下を走った。刺すような冷気が肌に触れる。吐き出す息が白い。しかしそれを気にするだけの余裕はなかった。リビングを抜け、玄関を抜ける。ドアが開け放たれ、視界が開いた。青ざめた世界の中にある、赤い瞳がこちらに向けられる。

「……起こしてしまったようですね」

傍らにいるサザンドラを撫でながら、彼は苦笑を浮かべながら嘯いた。圧迫するように喉元にこみ上げてくる感情に、言葉が妨げられる。荒くなった呼吸が白く宙に霧散するのを見ながら、2歩、前に進んだ。攪拌されるさまざまな感情に、頭の中が真っ白になる。

「そのような恰好では、風邪を引きますよ」
「わた、し……」
「いまさら、でしょう?」
「!」
「何1つとして始まっていなかった私たちに終わりは訪れない。貴女が、1番わかっていたはずだ」

彼の表情から、感情が抜け落ちる。サザンドラから離れ、ゆっくりと私の目の前に立つその姿を瞠目して見た。冷えた瞳が私を侮蔑するように見下ろす。

「早く中に戻りなさい」

有無を言わせない、そんな命令のような口調だった。拒否権を剥奪する威圧感に、萎縮する自分がいる。右手に握り締めた遺書が、グシャリと音を立てた。
渡さなければ。
これが最後の機会になる。これを逃したら渡せない。
無意識に震える四肢に、言葉が上手く紡げない。感情に埋もれた理性を強引に引きずり上げ、右手をぎこちなく持ち上げる。怪訝に眉をひそめる顔を見上げ、掠れた声で言葉を紡いだ。

「ごめん、なさい」
「?」
「勝手な……ことを、しました。最低だってわかって、最低なことを、しました」
「一体何の話ですか」

赤い瞳から目をそらす。ふと、泣き出してしまいそうになった。体が震え、息が詰まる。大きく息を吐き出し、嗚咽のように言葉を吐いた。

「あの人の遺書です――」
「!」

無表情を浮かべる貌が強張った。僅かに見開くその瞳が、私の顔から遺書に視線を落とす。そして無言で私の指先からそれを抜き取った。ひどく素っ気ない、冷たい動作だった。
それに再び全身が震える。きっと、失望したに違いない。私が行ったことは卑怯で最低だ。軽蔑されても、詰られても、同然のことだ。グシャリと、紙に深く皺が刻まれる音がした。彼が、遺書を握り潰したのだ。

「馬鹿な女だ」
「!」

喉に、何の前触れもなく圧迫感が襲ってきた。細い骨のような指が私の首に食い込み、容赦なく引いた。突然のことで何が起きたのか理解できなかった。反射的に見上げた瞳はどこまでも冷たく私を見下ろしている。肌が粟立つ。そこに宿るのが、激しい嫌悪であることはすぐにわかった。
瞼がジワリと熱を持った。それが呼吸が困難なことによる生理的なものからなのか、感情からくるものなのかはわからない。
――ただ泣くなと、唇を噛み締め自身に言い聞かせた。
首を絞める力が増す。

「――お前に何が分かる」
「……」
「無駄だらけだ。詰まらない。本当に。考えも足りなければ賢くもない。利用されるだけのどうしようもなく愚かな人間だ。吐き気がする」
「……は、い」
「中途半端に温い空間で、子供じみた家族遊び……その浅はかさには厭きた」
「……はい」
「本当に、愚かしいにもほどがある」

首を絞め上げる手が、一瞬だけ震えた。その手の甲に、自身の指先を這わせる。彼の表情は変わらない。吐き出す息の白さに視界が霞んだ。
――泣くな。泣くな。笑え。泣くな。笑え。笑え。笑え。

「ちゃん……と、読んで、ください……」
「……」
「……っあ……りがとう、ござい、ました」
「!」

声が震える。
嫌われていたって構わなかった。確かに悲しくてたまらない。だが、同情されて、嘘を吐かれるよりずっと良かった。
決めたことだ。
その時が来たら、手放そうと決めていた。ただ、「さよなら」は認めたくなくて、ずっと代わりの言葉を探していた。
互いに何1つとしてわだかまりのない別れがあるのなら、どんなに良かっただろう。かなわない現実を前に、無力に駄々をこねて泣くことは簡単だ。ならば、いっそのこと最も難しい別れを選ぶ。
それはまるで、出掛けるその背を送り出すような、ごく自然な言葉を。笑って言いたい。悲しみなど感じさせないように。嫉妬も寂寥も虚しさも押し殺し、ただ「綺麗」な感謝だけを面に出したい。
――彼女がそうしたように。
こんな酷い人間でも、できるだろうか。

「馬鹿な私の、わがままを、聞いてくれて」

手の力が緩む。赤い瞳が大きく揺れた。何故、そんな顔をするのか。無理やり顔に貼り付けた笑みを剥がすまいと言葉を続ける。

「今まで見限らないで、くれて」

気道が解放される。肺腑を満たす空気に、目の縁に熱が溜まった。首から手のひらが、離された。喉に残る異物感を飲み下すように息を吸い、ゆっくりと吐き出す。冷えた指先には、感覚などほとんどなかった。

「嬉しかった……っ」

たとえ彼に負担をかけるだけの毎日だったとしても。私のエゴだとしても。上辺だけの薄くしつらえられた時間だとしても。
時間を共有してくれたことは、まぎれもない事実だ。それに対する感謝は本物だった。
1人きりの生活に、どうしようもなく疲れている自分がいた。怯えている自分がいた。だから。

「……っありがとう、ございました」

側にいてくれた事実だけで、もう充分だ。
見開いた瞳がただ私を映している。彼女が望んだことは彼の倖せだった。だったら私は彼の自由を望む。もう苦しむことがないよう。たとえ許されない罪を抱えていようと、その心にいつか平穏が訪れるよう。
……ゆっくりと冷えた大きな手のひらが頬に触れた。その冷たさに、僅かに身が強張る。

「どこまでも、貴女は愚鈍な人間ですね」
「そう、かも、しれません」
「だが、そんな人間が、世界に淘汰されないよう……少しは楽に呼吸ができるよう、生きていけたらいい」
「!」
「……嫌いでは、ありませんよ。貴女のような方は」
「……」
「だから、怯えずに生きていけばいい。私がいなくても、最初から独りではなかったはずだ」

頬に触れる手に、縋りつくように手を添える。苦笑する彼はただ静かな声音で言葉を続けた。

「何故そこまで私に執着するのです」
「そんなの、秘密です。なんて……バレバレですよ、ね」

今さら、言葉にしなくたって気付いているでしょう?
少しでも思考に沈殿していく感情を除外しようと、わざとおどけて言葉を紡いだ。気を抜けば、堰を切ったように涙を流してしまうことはわかっていた。だから、ひたすらそれを隠すように平生の自分を顔に貼り付ける。

「本当に、馬鹿な人ですね」
「!」

頬を包む手のひらにより、視線を強引に持ち上げられる。赤い瞳が伏せられた。同時に唇に触れる柔らかな冷たさに、呼吸を止める。何が起こったのかわからなかった。しかし触れた乾いた唇は、一瞬で離れた。目を見開き、その貌を見付ける。困ったように微笑しながら、彼は手のひらを頬からうなじへと移す。指先の冷たさに、背筋がゾクリと跳ねた。その手のひらに引かれ、体が傾く。同時に再び重なる唇に目を閉じた。

押し当てられた唇は、それ以上を求めずに控えめに離れていく。彼は触れた余韻すら消してしまうように、私の唇を指先で拭った。
そしていつものような静かな表情で告げた。

「……いってきます」

手のひらが離れる。ジワリと滲む視界に、唇を噛み締めながら歪な笑みを再びしつらえた。

「いってらっしゃい」

いつもと、逆だ。思考の片隅に発露する考えに焦がれる。背中が向けられる。跳ね上がる心臓に、噛み締めた唇が震えた。一瞬だけ振り返るその横顔にまだ泣くまいと笑顔を向ける。
もう、その背中は振り返らなかった。
サザンドラの背に乗り、ふわりと宙に姿が浮かぶ。躊躇いもなく宙へと飛び立つ背中は、ただただ私から遠ざかっていった。どこまで行くのか。どこを目指しているのか。その姿が見えなくなるまで見詰めた。

そして見えなくなった途端に、涙が堰を切ったように溢れ出てくる。
その日、声を上げて泣いた。
体を引き裂くような思いに、苦しくてたまらなくなる。悲しくて寂しくてたまらない。苦しい。それと同じくらい、嬉しい。またひとりぼっちになってしまった。いや、違う。私は確かに1人だが、独りではないのだ。思い込んでいただけだ。
冷たい外気に冷え切った全身も、僅かな残り香も、過ぎ去った時間も、総て抱き締めるように体を掻き抱く。

聲が枯れるまで泣いた。涙が止まる頃には夜が明ける。柔らかな春の日差しを携えた、残酷な夜明けだった。名残雪が溶かされていく。

「風邪を引いてしまうよ」

カーディガンと共に背に触れた声に視線を持ち上げる。そこには彼の唯一の肉親である青年が立っていた。どこか痛みに耐えるような表情を浮かべたN君は、私の腕を引く。

「無駄ではないと、僕は思いたい」
「……」
「だから、君には、投げ出さないで、生きてほしい」
「どう……しよう……」
「なに?」
「だっ……て、だって、ずっと……どうしよう」

私の、一方的な、恋慕で終わると思ってた。

「だから……っ」
「……知らないよ。それより早く中に戻ろう。風邪を引いても、僕はまともな看病なんかできないよ」

少しだけ強引に、その手に引かれながら家の中に戻る。
もう、彼はここにはいない。
誰もいないリビングに、再び涙が溢れ出てくる。片隅に佇むピアノからは、懐かしい音が聞こえた気がした。揃えた家具も、買い換えた食器も、使っていた人はここを去った。

空っぽな家の中は、嘘のように明るかった。






20110805
修正:20110821





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