careless envy


(―遺書より―)

生まれた子には■■■と名付けましょう。
あなたがわたしにそう言ったので、この子の名前は■■■です。■■■は男の子なので、わたしに似るでしょうか。男の子は、よく母親に似ると言います。でも、あなたによく似た髪の色と、わたしとよく似た瞳の色を持っているので、これなら公平ですね。わたしが笑うと、あなたは■■■■ 可笑しそうに笑いました。

(―中略―)
(文字が潰れていてほとんど読みとることができない)

■■■■■■■。
■■と■■■■■る
■ってる。

識ってます。
わたしだけが、あなたを倖せできること。
わたしでなければあなたは倖せになれないこと。
解ってます。
■■■を倖せにできるの、わたししかいない。
だって、そうでしょう。
言ってくれたでしょう。
大好きだって言ったでしょう。
わたし■■■った。

わたしは世界が大嫌いだった。
すぐに体調を崩す自分の体も、わたしを見て辛そうにする親も、晴れた空も、楽しそうな他人も、みんな嫌いだった。大嫌いだった。
だって、それでは不公平だ。
わたしは、何か悪いことしたのだろうか。
それとも、前世で許されない罪でも犯したのだろうか。
医者代で頭を悩ます母親。日増しにそれに苛立ちを抱く父親。優しくない親族。
お金がかかるだけの、肉の塊。わたしは、それだけの存在だ。
優しくない。怖い。要らない。
だから、昔逃げようとしたことがあった。逃げきれなくて失敗して手首に消えない疵痕を残した。首に痣を作った。
あなたは気付いていただろうか。
わたしは、不幸な自分が嫌だった。惨めな自分が嫌だった。嫌いだった。
だから、わたしより倖せではない貴方に同情して、辻褄合わせの愛情に優越感を抱いて、安心してた。

覚えて、いるかな。
それすら後悔したって、謝った日を、覚えてるかな。
好きになったのは嘘じゃないって、言ったの覚えてる?


(―中略―)

わたしは倖せになれるって思ってたのは嘘じゃない。
でも、貴方はどうだろう?
本当に倖せだろうか?
わたしに時間を食い潰されるだけの毎日が、倖せ?

―――

病気が見付かった。
妊娠していたから発見に遅れて、末期だそうだ。
治療で延命はできると言われた。

「でも、もういいですよ」
「わたし、充分生きましたよ」

治療は、迷わず断った。
あなたは知らなかったでしょう。
ごめんなさい。
あなたには内緒にしてと、わたしが頼んだ。
だって、あなた、言うでしょう。
わたしに「生きて欲しい」って、言ったでしょう?
わたし、充分生きた。
もういいよ。
もう、疲れた。
だって、頑張った。
今まで頑張ったでしょう。
大嫌いな薬も点滴も治療も、我慢してきた。
もう、いいでしょう。
頑張れない。
がんばりたくない。

それに嬉しかった。
出産の後に「頑張ったな」って、言ってくれたこと。
嬉しかった。
だって誰も今まで言ってくれなかった。
わたし、初めて、認めてもら■■。
それだけで、良かった。

(―中略―)

逃げ出してごめんなさい。
でも、わたしの面倒まであなたが見る必要はありません。
あなたがわたしの人生に縛られる必要はないんです。
わたしがこんな状態で生き続ければ、あなたが追いつめられてしまいます。
あなたを苦しめたくありません。
自由になって、いいんです。
結局、わたしは自分の人生から逃げ出しただけの敗者です。
それだけの人間です。
他人に迷惑をかけるだけの、人生でした。
でも、1つだけ信じて疑わないことがあります。

あなたを倖せにできるのは、わたしだけです。

あなたの心はいつだってわたしに向いていて必ず帰ってくると信じてます。
あなたを誰よりも想っているのはわたしです。
そうやって、わたしに人生を食い潰されていくことも知っています。
あなたを苦しめているのはわたしだって、解ってます。
だから、わたしにしか、あなたを倖せにできません。
わたしだけが使えるあなたを倖せにできる秘密の言葉。

「誰かと倖せになって」

いつかわたしが消えた広い世界で、わたしではない誰かと倖せになってください。
あなたを手放します。
あなたは倖せになるんです。
良かった。
あなたが1人ではないよう、この子を残せて。

誰よりも、倖せになって。

あなたがもしこの大嫌いな世界で倖せになったなら、わたしはきっと少しだけ世界が好きになれる気がするんです。
そうしたら、生まれ変わって、また、会いに行きます。
わたしが大嫌いな世界で生きる、わたしの大好きなあなたの倖せを祈ってます。





「……渡せる?」

足元に落ちた視線を掬い上げるように、N君が私の顔を覗き込んできた。それに古びた封筒を持つ手が震える。勝手に中身を見た罪悪感と、どうしようもない敗北感に喉の奥が締め付けられた。

病院を後にした私は、すぐに家に帰れるわけもなく、N君を伴って本屋に来ていた。婦長さんにより手渡されたその封筒の中身は、まぎれもない彼の亡き妻の遺書だ。皮肉を言うのならば、何故それが彼の手に渡ることなく、長い時間病院に保管されることになったのかということくらいである。
遺書自体、見つかったのが「彼女」の葬儀を終えた翌日あたりだったらしい。何かの拍子にベッドの下に落ちたのか、病室の掃除をしていた看護士が見つけたのだそうだ。
もしそれが後1日早かったら、彼に渡すことが可能だっただろう。彼が、ここまで苦しまされる必要もなかったのだろう。彼が私のところに来る以前の大きな事件も、もしかしたら多少は変わったのかもしれない。
詰まらない思索を巡らせながら、私は胸中に鎮座する痼りに目を伏せる。

「僕は、もう知りたいことを知ることができたから」
「……!」
「後のことは、自分で何とかするつもりだ」
「そう」
「君はどうするんだい?」
「……」
「そんな、仇を前にしたような顔で、ゲーチスに遺書を渡せるの?」

仇を前にしたような、顔。
その言葉に、妙に納得してしまった自分がいる。じわりと広がる熱に、遺書を持つ指先が震えた。
――だって、狡いでしょう。
何故そうも「綺麗」であろうとするのか。どうしてそんなにも「綺麗」なままなのか。
「酷い女」なら良かったのにと、毒づく自分がいる。そうすれば、彼が彼女に未練など抱かない。簡単に切り捨てることができるだろう。さっさと想いを諦めて、捨て去ることができたはずだ。遺書に恨み辛みを羅列していれば、彼女は「酷い女」で終わったのだ。「自分本位」で「自己中心的」な女で終わったのだ。そうあって欲しいと、私は望んでいた。

「だって……酷い」

そう願う私は、酷い。最低だ。
一瞬でも彼女に適うと思っていた。遺書で彼女の本心が確実にわかると思っていた。そこに書かれてあるのは、きっと彼女自身の当たり障りのない謝罪と懺悔だけだと思ってた。死を選んだ理由さえ分かれば、彼を少しでも救えるのではないかと思ったのだ。たとえどんな理由であれ、彼の彼女への想いに区切りがつくと信じてた。
――だから彼女の彼への愛情など、知りたくなかった。

「君、僕の母さんが、嫌いだろ」
「……」
「父さんを誰にも渡そうとしない母さんが、嫌いだって思っただろ?」
「ほんと、に……」
「……」
「狡い……酷い。死んでも、縛り付けるなんて、酷い。後になって、こんな……綺麗な思いを見せ付けて……」
「……」
「だって、適わない。こんな……私、だって、私は酷い、最低……何も……」

視界が熱を持って滲む。瞼の縁から溢れ出た熱に、顔を覆った。

「何もできなかった」

彼を解放するのは、この遺書を書いた彼女だ。慈愛と愛情に満ちた謝罪文だ。それは彼の彼女への愛情を増幅させ、責め苦から解放するだろう。
私は、酷い結末を願っただけの最低な女だ。非力さが思考を焼き、罪悪感が波紋する。

「嫌い、大嫌い。本当に、大嫌いだよ」

こんな自分。絶えず繰り返し反芻する言葉は、意味も持たない。ただ自分の惨めさを誇示していくだけだ。俯く私の背中を、冷えた手のひらがさする。か細い声が降ってきた。

「僕は、真っ当な人生なんて送ってはいないから」
「……」
「何も言えないけど、君は、人間らしい人間だと思うよ」
「……」
「誰かを好きになって、誰かに嫉妬して、そんな自分が嫌いだって言うなら、君は『人間らしい』人間だね」
「そんなこと」
「羨ましいよ」

目元を服の袖で拭う。視線を向けた先にあるN君の顔が、悲痛に歪んだ。伸ばされた指先が涙の跡を拭うように頬に触れる。冷たいそれに、細く息を吐き出した。

「……ちゃんと渡すよ」
「うん」
「動揺はしてるけど、決めたことだから大丈夫」
「うん……じゃあ、僕はもう行くから」
「うん」

去っていく薄い背中を見詰めながら、私もまた本屋を後にする。コートのポケットに慎重に入れた遺書を気にかけながら、帰路を辿った。泣いたせいで腫れた瞼を擦りながら、必死に平生の自分を探す。

家に着いた時、ごく自然に私を迎えた彼は、いつものように穏やかな口調で「お帰りなさい」と紡いだ。





20110525




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