dreamless people


識ってる。
識っている。
わたしだけが、「彼」を倖せできること。
わたしでなければ「彼」は倖せになれないこと。
解っている。
わたしが――




「夕飯をお願いしてもいいですか」と、私が出かけ際に言い放った予防線にも似た言葉に、彼は特に表情を変えず頷いた。よく考えれば自分から何かを頼むこと自体初めてだった。意を決したように紡いだ言葉が、柵にも似たモノだなんて、と無意識に自嘲が零れ落ちる。彼が私が帰るまで出て行かないという確信と、明日の朝にはいなくなってしまうかもしれないという予感が攪拌された。重く陰鬱にのしかかる思考を必死に押し退けながら、平生を装う。顔に貼り付けた笑みのぎこちなさを自覚しながら、私は家を出た。

約束である本屋に足早に向かう途中は、詰まらない思索に耽る。彼のこと。N君のこと。亡妻のこと。そういえば、「彼女」の名前を私は知らない。彼は一体、どんな顔で、声で、瞳で、「彼女」を呼んでいたのだろう。それは私の知らない顔だろうか。「彼女」だけが許された、彼の顔だろうか。
途端に、彼の背中が遠ざかる。仄暗い感情が小さくくすぶるのを感じながら、私は辿り着いた先にあるドアの前に立った。彼の髪とよく似た萌葱色の髪が冷たい風に揺れ、その薄い背中で踊る。一瞬だけ躊躇った後に、私は口を開いた。

「おはよう」
「……!」

肩が震える。私を振り返る灰青色の瞳が丸くなり、冷たい路面を反射した。ひとつ息を吐き、その背中に近付く。青年はぎこちなく挨拶を返し、ポケットから何かを取り出した。……罫線が書かれた紙片のようだ。ノートでも破ったのだろう。細い指先が掴むそれと、帽子に陰る瞳を交互に見た。

「これは」
「僕が生まれた病院だそうだよ」
「!」
「トモダチが調べてくれたんだ」

そう言って力無く笑った瞳に、私は紙片を受け取った。罫線に沿って書かれた文字は、病院の名前らしきものとその住所だ。この短期間でここまで調べられるなんて、調査に慣れた友人がいるのだろうか。感心とも疑問とも付かない気分に、心臓が早く鼓動を打つ。

「ありがとう」
「そこに行くのかい?」
「え、あ……うん」
「僕も行くよ」
「……」
「僕にだって、それを知る権利はあるだろ?」

絶対に、と言うように、彼は私の腕を掴んだ。まるで小さな子供のように、心細げに揺れる瞳に胸が軋む。彼の実の息子であるこの青年を差し置いて、非常識にも他人の過去に詮索しようとしている自分の図々しさに気後れした。ついぞ怯む思考を叱責し、受け取った紙片を握り締める。私にこの子の頼みを、拒否する権限などありはしない。ただ静かに頷けば、彼は一瞬だけ表情を弛緩させた。そしてポケットにでも入れていたのだろう、モンスターボールを取り出す。「狭かっただろう」と詫びるような言葉と共に放り投げられたそれからは大きく真っ白な体躯を持つポケモンが現れた。……見たことがないポケモンだ。いや、最も私自身ポケモンには詳しくない。この地方に生息している全てのポケモンを把握しているわけではないのだ。知らないポケモンがいても何らおかしくはない。
純白の毛並みの間で、青く澄んだ瞳が瞬く。あの人が持つサザンドラとはまるで対局に位置する姿だ。こちらに向けられるその瞳に、小さく笑みを浮かべた。

「えっと、はじめまして」
「レシラム、この人がこの前話したノトだよ」
「レシラム、て言うんだ」
「ああ。レシラムも君に『はじめまして』だって、そう言ってる」
「!」

『撫でてやってください』
『!』
『そう言っています』

ふとしたように、どこか印象がかぶる。仕草、言葉、言動。やはり親子なのだろう。

「レシラムに乗って行けばすぐに着くよ」
「私までいいの?」
「だって、君が行くって言い出したんだろ?」
「そういう意味じゃ……ないんだけど」
「?」
「お願いします」

苦笑しながら、N君の手に引かれてレシラムと呼ばれたポケモンの背中に乗る。私と彼が乗ったことを確認したレシラムは、ゆっくりと羽ばたき出した。
風がうねり、髪が翻る。遠ざかる地面を眺めながら、目の前にある薄い背中に面影を重ねた。

「ちゃんと掴まって。落ちても知らないよ」
「大丈夫」
「……ねえ」
「なに?」
「君はゲーチスを『すき』だと言ったね。何故?」
「!」
「同情? 哀れんでる? それとも何かあるの?」
「……唐突だね」
「わからないんだよ。理解に苦しむ。他人を無条件で思うなんて、できやしないんだ」
「どうしてそう考えるの?」
「――だって、母さんは『つじつま合わせ』で父さんを『好き』になった」
「!」
「ゲーチスが言ってたよ。だから僕は被害者だって、母さんは残酷だって、ゲーチスは、要らなかったって」

それは自虐的とも思える強引なこじつけだった。N君の表情はここからでは窺えない。ただ、どんな気持ちであったのだろう、と思う。その考えに至った時、語るとき、そう結論を出さざるに得なかったとき。

「僕は、さ」
「?」
「僕は『守るために、闘うからN』なんだって」
「……」
「『N』は、チェスで『騎士』を表すんだよ。でも、僕にはもうないんだ。守るものも、闘うものも。だってそうだろ? 僕が間違いなんだろ? 僕もゲーチスも間違いだ。夢を見てたんだ。そんな世界はないんだよ。夢は、もう見られないんだよ。無くなっちゃった。だから、彼も、僕も、逃げたんだ」

世界は冷たい。彼は呻くように言葉を漏らした。薄い肩が震える。
――私はまた、かけるべき言葉を持っていない。ついぞ口を噤むと、彼は自嘲にも似た笑い声を零した。
するとレシラムが鳴き声を上げる。遠く離れた地面に、小さな街のようなものが見えた。此処が、この子が生まれた街だろうか。ゆっくりと下降するのに合わせて、心臓がドクドクと波打ち始める。地面を踏みしめる足から感覚が抜け落ちるような錯覚に捕らわれた。
……緊張しているのだろうか。いや、それ以上に、罪悪感が大きい。わかっていながら行動したのだ。覚悟を、決めなければ。





N君はレシラムをボールには戻さず、その場に残して歩き出した。幸い病院の近くにある森の中に降りた。歩いて5分もせずに着くだろう。
森を抜けると、アスファルトに覆われた地面が現れる。しかしそのアスファルトも広くはなく、少し歩くと今度は砂浜が広がっていた。さらにその先には碧く澄んだ海原が静かに佇んでいる。
海辺の小さな街だ。

N君と並んで歩く間、会話らしい会話はなかった。迂闊に言葉を発することの不躾さに、無意識に声が体内に沈んだ。自分の矮小さばかりが突き付けられる。

少しだけ躊躇うように足を止めた後に、私は病院の自動ドアを抜けた。





「本日はどうしましたか?」

穏やかな声が鼓膜を突き、反射的に肩がビクつく。受付の女性の側に行くなり、発せられたそれに言葉が詰まった。
病院に来たのに、診察が目的ではないのだ。それどころか、昔この病院で出産した後に自殺した女性について聞こうとしている。不審者以外の何者でもない。どう言葉を返したら良いか分からず、挙動不審になっている私に女性は訝しげに眉をひそめた。するとN君が1歩前に進み、落ち着いた口調で言葉を紡いだ。

「昔ここで出産した女性で、ハルモニアの姓を持つ人がいませんでしたか」
「!」
「或いは、ハルモニアの姓を持った男性が夫だった女性がいませんでしたか」

受付の女性が不審な表情を浮かべた後に、「少々お待ちください」と席を立って奥の方に消えた。……追い返されるだろうか。病院と言えど、個人情報を容易に明かすことはしないだろう。不安に竦む足に、深く息を吐き出した。
まもなくして、壮年の女性が現れる。婦長だろう。細かな皺が刻まれた穏やかな表情を浮かべた女性は、「場所を変えましょう」と私とN君を小さな病室に招いた。





「あなたがあの時の、赤ちゃんでしょう?」
「!」

お茶を注ぎながら紡がれた言葉に、N君が反応した。灰青色の瞳を丸くし、婦長の顔を凝視する。婦長は僅かに笑った後に、私と彼の向かいに座った。

「ハルモニアご夫妻でしょう。よく知ってるわ」
「あの、あなたは」
「偶然、私が担当だったの。静かな人たち、というのが一番の印象だったかしらね。早いわね。もう20歳になった?」
「あ……いや、まだ……」
「そう、でも、生きていて良かったわ」

どこか苦しげに笑って見せた彼女に、N君は訝しげな表情を浮かべた。……そうだ。この子は、母親が自ら命を絶ったことを知らない。彼が、そう言っていたのだ。

「ところでご主人……お父さんは? それにそちらの女性は」

視線が私に向けられる。緊張からか、つい言葉に詰まってしまう。それでも必死に笑みを浮かべながら、言葉を紡いだ。

「私は、えっと、友人です。あ……ゲーチスさん、の……友人で」
「!」
「その、今日は、奥様の話を」
「――これ、でしょう?」
「!」

婦長が1枚の封筒をテーブルに置く。古びた無地の封筒だ。首を傾げると、彼女は目を細めて続けた。

「遺書よ」
「!」
「本当はご主人に渡すはずのものだったの。でも、見つかったのが葬儀を終えた後で。もうご主人が病院を去った後だった」
「あの、奥さん、は」


搾り出すように吐いた声が情けないことに掠れた。激しく動揺しているのが一目瞭然だ。不安げにN君がこちらを見る。それに意を決したように再度口を開いた。

「奥さんが、亡くなった理由を知りたいんです」
「……」
「私は」
「陳腐な言葉で表すのなら」
「!」
「彼女は誰よりも彼を一番に想っていたのかもしれないわね」



だから死んだのだと、女性は無情にも語った。


わたしが、彼を苦しめていることも解ってます。





20110515
修正:20110821





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