sightless tear

「また、少し多く作りすぎてしまいましたね」

ごく自然に苦笑してみせた彼に、私はぎこちない笑みを返した。泣き腫らした瞼は重く、その視線は無意識に手元に落とされる。フォークを挟む指先は、先ほどから上手く動かない。震えまいと握り締めた左手の手のひらには、爪が食い込んでいた。
彼にとっては、きっとこれが当たり前の反応なのだ。自分の過去の断片を吐き出したところで、大した感慨はない。もう何年も背負ってきたそれに、今さら悲しんだりしないのだろう。明日の天気を予想するほど軽く口をついた言葉は、今ではただの過ぎ去っただけの事実だ。語ることに悲しみはない。虚しさもない。感慨もない。とうの昔に、麻痺したものに違いないだろうから。
それとも、私にはわからないだけだろうか。少しでも、悲しんでいるのだろうか。――その答えを打ち消したがるのは、私の中に根付いた執着心の現れに違いない。
動揺し、無様な醜態をさらし、ただ惨めに泣くしか脳のない私にはお似合いだ。
激しい自己嫌悪に、自嘲の代わりに内心で自身に侮蔑を吐いた。

「……食欲がないのなら、無理に全て食べる必要はありませんよ」
「そんなことありません。美味しいですから」
「お口にあったなら良かった」

何事もなかったかのように振る舞う。それはまるで明日を約束するかのように。しかしそれは同時に別れを告げようとしているのだと思った。
今まで何1つと互いに互いを知らなかった。だからこそ一緒にいた。それが共にいる条件にして暗黙の了解だった。
……彼はきっと近いうちに出て行くのだろう。
私の意志に関係なく、ここを去っていく。
どんなに覚悟を決めたところで感情は容易に動揺する。相剋した思いに決心がブレる。
それでも、彼を見送るために。
私ばかりが救われていた。私ばかりが彼から施しを受けていた。ならば今度は私が彼に何かをする番だ。
未練も寂しさも簡単には断ち切れない。だが、それでも私に、何かできることがあるだろうか。

彼の為に、私は何ができるだろう。





昼食を終えて、いつものようにソファーに座って時間が過ぎるのを待つ。時間が経つにつれ平生を思い出しつつあった私は、珈琲を入れて彼に差し出した。本に目を通していた彼は、一度動きを止めては読んでいたページに栞を挟んで閉じた。
今までと何ら変わりのない、午後の風景だった。
テーブル、ソファー、棚、テレビ、ピアノ。リビングにある物は、ずっと昔からこの程度しかない。ただ、彼が来てから壊れた時計を買い替えたり、食器を買い足したりした。それも、過去のことになる。これらもいつか無意味になるだろうか。マグカップの中の黒い水面に私の顔が映る。
不意に、ピアノの鍵盤を弾く音がした。珈琲を飲み終えたのか、彼はカップをテーブルに置いてピアノの傍らに行く。いたずらに響くバラバラな音階を耳で追いながら、私は懐古の念に身を沈めた。





それから何の前触れもなしに携帯に着信が入ったのは真夜中だった。うとうとと浮き沈みを繰り返していた意識は、突然響き渡った携帯の電子音に引き上げられる。時計の針は0時過ぎを指していた。一体誰だろう。覚醒しきらない意識を振り払うように、体を起こす。疑問を浮かべながらディスプレイを見るが、非通知だ。公衆電話からだろうか。僅かに躊躇いを覚えながらも、電話に出た。
受話器の向こうからは、まだ聞き慣れていない声が響いた。

『……起きてた?』
「N君、かな」
『うん』

今日、いや、日付は昨日か。教えたばかりだ。それでもこんな夜中に電話をかけてくるということは、何度も掛けようとして躊躇った結果だろう。部屋の中の音が外に漏れないことを一度確認し、少しだけ声量を落としてどうしたのかと問いを口にした。小さな罪悪感が頭の片隅にチラつくことを強引に押しやる。同時にふと、思考に何かが引っかかった。途端に心臓が急かすように鼓動を早く打つ。

『聞きたいことがあって』
「私も」
『!』
「少し、聞きたいことがある、かも」
『何、それ』

受話器の向こう側の声が、くすぐったそうに笑った。それに早まる鼓動を無理やり押さえ込む。彼は『なに』と問いの続きを促した。

「もし、気分を悪くしたらごめんね。N君は、自分が生まれた病院、どこだからわかる?」
『生まれた、病院?』
「うん。或いは、それを知っていそうな人」
『……さあ、興味がないからわからないな』
「知っていそうな人は」
『どうして』
「え……」
『何が知りたいんだい?』
「……!」
『何をしようとしているの』

――何を。
うなじの辺りに冷たい空気が触れる。息を呑み、答えに躊躇った。
具体的な何かを知りたいわけではない。ただ、知れば何かできるかもしれないと思っただけだ。
それが如何に図々しいだけの行いでも。他人が干渉していい領域ではないことはわかってる。触れてはいけない傷であることもわかってる。
だが、彼が語った『彼女』の姿はあまりに漠然としていて朧気だ。――何か大切なものを見落としている。
彼は、もしかしたら見落としているから、「自分が自殺に追い込んだ」と思っているのかもしれない。だったら私がすべきことは明確だ。私が、彼を。

「助けたい」

私にしかできないと、自惚れたって、いいだろう。冷たい空気に指先が悴む。握り締めた手のひらに力が籠もった。

「だから、知りたい。図々しいことも、非常識なことも、わかってる。でも」
『――朝に』
「!」
『行くから。君の本屋』
「……!」
『それまでに調べとく。あと、僕もついて行くから』
「あり、がとう」

電話が切れる。世界は一瞬だけ無音に包まれた。冷えた夜気ゆったりと肌に張り付き、体温を奪っていく。小さく身震いしては携帯を閉じ、机の上に戻した。
目が冴えてしまった。
だが、それでも何かを見つけたことに躊躇いが遠ざかる。
窓から差し込む青白い月明かりを眺めながら、もう一度横になった。――春はもうそう遠くない。柔らかく暖かい日差しが差し込むことを望むように、目を閉じた。







20110514




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