voiceless love

何も知らない。
彼がどのような人生を送ってきたのか。その時間の中でどれほど苦しんできたのか。喪ってしまった彼女に、どれほど救われていたのか。
私は知らない。
彼女の死に、彼がどのような思いで直面したのか。何故彼女は何の前触れもなく命を絶ったのか。何故無二の家族から離れることを選んだのか。どうして道を違えたのか。
私は何も知らない。
どうして彼らは『人』であることを剥奪されなければならなかったのか。


「……本当に、自殺なんですか」
「ええ」
「でも、なら……だって、それまでは見限らないで……っ」

いてくれたはずなのに。
――何故?
死にたくなるほどの苦しみを抱えていたのか。我が子を前にして、生き長らえることに対する不安を覚えたのか。生涯を添い遂げようとした人がありながら、己自身の人生に恐怖したのか。
それに気付かれまいとすることに疲れたのか。或いは気付かれない事実に失望し、絶望したのか。生きることを捨ててしまいたいほど、世界を悲観していたのか。

どうして、何故、死ぬことを選んでしまったのか。
途方のない問いが体内に沈澱していく。濁り、淀んでいく思考は、膿んだ傷が抉られるような時間の流れを感じていた。かけるべき言葉すら見失い、ただ告げられた過去の冷たさに瞼が震える。彼の白く冷たい磁器のような指先が、瞼の縁を拭うようになぞった。

「私が、殺した……」
「!」
「死なせてしまったのです」

――あの弱く小さな人を。
自嘲のように吐き出された言葉が空間に染み込む。自分の過去すら嘲る彼に、喉の奥が締め付けられた。息が詰まる。母が病死だった私とは、違うのだ。死んだ理由が分からない。万が一その理由に自分が一端していたのだと思うと、それだけで耐え難い自己嫌悪に陥る。自分の存在が許し難い「悪」に変わる。
自分を責め殺すだけの、毎日。
救われない。報われない。死んだ人間に、真実を教えてもらえるまで。どこにも安らぐ場所がない。生きながら幾度となく自分自身を殺す。死んでいく。だが、生きている。その繰り返し。

――私では、ダメだ。
私みたいな人間は、全くダメだ。まるで巧くない。入り込む余地がない。そんな考えを僅かでも抱いた自分は全くもって愚かだ。私は勘違いをしていた。過信していた。
傲っていた。たかだか半年間、一緒にいただけで、わかった気になっていた。
……そうだ。彼が出て行くかもしれないという事実に諦めながら、確信していた。私が望めば戻ってくると。
その心に寄り添えるのは私だけだと、傲らなかったことが一瞬でもなかったなどと言えるだろうか。彼の過去を頭のどこかで軽視していた。だから、「出て行かないで欲しい」などと自分本位の言葉が簡単に口を吐く。
私は、酷い。
そんな資格はない。彼がここにいる義務も、私が彼を引き止める権利も、何処にもない。わかっていた。それはわかっていた。わかっていると嘯きながら、頭の片隅で、甘く見ていた。
私では、まるでダメだ。
その膿んだ傷口すら、包むことはおろか触れることすら許されない。
私は、ダメだ。
こんな馬鹿な人間では、ダメだ。

『ゲーチスは頭の悪い人間は嫌いだから』

こんな人間、本当に要らない。

「貴女が、気に病む必要などまるでありませんよ」

指先が離れる。陰る瞳には、例えようのない感情が揺れていた。

「前にも、言いましたね。貴女は私を追い出す権利があると」
「!」
「私たちは、所詮は他人の延長線上にある。他人に余計な恩を売るのは、あまり好ましくない」
「私、私は……」
「貴女は、容易く情に絆されるような人間だ。同情で自分の人生をダメにする必要は、ないでしょう」
「同情なんて、私は、ただ、本当に……っ」


「気を使っていただかなくとも、私は貴女に関心も未練も、何の感慨もありませんよ」


――だから、追い出されようと何も思わない。気に病むな。捨て去ればいい。誰も、責めない。
誰も。誰も。なにも、ない。
最初から空っぽだった。
私は、いない。
入り込む余地どころか、最初から、そこに私は。
頭を内側から鈍器で殴られたような眩暈に襲われる。込み上げくる形容のしようがない感情に、瞼が熱を持った。底無しの暗闇に放り込まれたような錯覚に、呼吸が一瞬震える。
得体の知れない感情がぐちゃぐちゃに入り乱れる。思考が攪拌される。N君の姿が、無意識に脳内で再生された。
――しっかりしろ。ダメだ。ちゃんと、しないと。こんなことじゃ、できない。N君は。ずっと。彼は。ゲーチスさん、は。
――ゲーチスさんは。
名前を、呟いたのは一体どのくらいになるのだろう。ずっと、気後れしていた。名前を呼べば、呼んでしまったから、もう平気だと言えない。独りに戻ることが怖くなる。線引きして守ってきた臆病な自分が利己的な行動を起こす。
いつかまた1人に戻る未来に、押し潰されてしまう。
だから新しく線を引き直して、必死に引き止めようとした。引き止めようとしながらも、私と居てはダメだとわかっていた。彼は在るべきところに帰る。あの青年の為にも、私は手放さなければならない。

その覚悟を、今日決めたばかりなのに。

こんなにも簡単にダメになってしまう。苦しくなる。寂しくなる。終わっていたという事実に、貼り付いている現実に、逃げ出したくなる。

「……昼食は私が作りましょう。今日はパスタでしたか」

彼が私の指先に引っ掛けてあるビニール袋を静かに掴み取る。とっさに言葉が出ない私は、ただ震える吐息を噛み殺すだけだった。尚も平生と変わらない様子の彼に、耐え難い寂寥感が込み上げる。

「……座っていなさい。疲れているのでしょう、顔色があまり良くない」

何も言えない。どうしたらいいのか分からない。助けたい。救いたい。傲慢だとわかっていても。
息が苦しい。
分からない。
分からない。
だけど。

「……ノト?」

どうか、独りだと思わないで欲しい。こんなにも時間を共有しながら、自分が孤独なのだと思わないで欲しい。私がいたことは、確かなのだから。

「仕様のない人ですね……」

泣きながら縋り付く私を宥めるように、彼は背中をさすってくれた。
その体温に感慨がないなど、ないと今だけは信じたかった。






20110429




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