wordless dead


世界が優しかったことなどない。

私が生まれた頃より世界は冷たかった。ピアノで奏でた歪な和音の名前を与えられ、望まれぬ子として生を受けた。
父の「賢い人間であれ」という言葉通り物事を学び、母の「強い人間であれ」という言葉通り力を身に付け、親族の「英雄になれ」という言葉通り、神話の実現を夢見た。押し付けられるだけの役割に、疑問を持つだけの思索すら抱けなかった。中身のない人間。空の人格。欠陥品。英雄の出来損ない。人の、成り損ない。私にそれの資質がないと判れば、世界は更に冷たく心臓に突き刺さる。現実など、この程度のものだ。諦めることは楽だった。世界は冷たく残酷だ。自らそんなもの、望んだ覚えはないのに。不要になったら捨てられる。居場所も在処も奪われる。
世界は――ひとは、どこまでも他人に非情であろうとする。

彼女と出会ったのは、おそらくその頃だ。体が生まれつき弱く、稀にしか外にはでない人間だった。しかしよく笑う人でもあった。詰まらない話も、自分に無関係な話も、いつも真剣に耳を傾ける。話を聞いてくれた。誰かと話すことは好きだと語っていた。同じ目線でいようとしていた。距離をとることも、拒絶することも、目をそらすこともしなかった。私を、見限らなかった。
ひたすら機械的に少年期を送ってきた私には、自分の意志が他人に伝わること自体、理解できなかった。それゆえに、彼女は『特別な人間』なのだと思った。

『人間には特別なんてものないんだよ。「そうやって生きる」権利は無条件で持っているもので、「生きていく」義務は平等に与えられてる』

権利も、義務も、馬鹿馬鹿しいほどに『普通』のことだ。知らない自分の惨めさと、その現実に押し潰されそうに何度もなった。親に愛されてない事実。親族に見捨てられた現実。自分が、必要とされてない世界。
――確かに人より多くの知識はあるかもしれない。だが、『しあわせ』であることに無知だ。そしてそれはあまりに『不幸』で、残酷で、惨めだ。それすら知らずに生きていくのだから、滑稽に映ったことだろう。

『――なら、その優しさに貴方自身が押し潰されてしまわないよう』

彼女は私にそう繰り返した。
だがそれは、むしろ彼女の方ではないのだろうか。私の人生に付き合う必要などなかった。その細く脆い体で寄り添うべき相手は、私でなくても良かったはずだ。彼女が倖せになるための未来は、もっと別の場所にあったはずなのだ。何故、私を選んだのか。
同情しているのか。哀れんでいるのか。不憫に思っているのか。情にほだされて、自分の、人生を。
――それは、キレイなことかもしれないが、決して正しくはない。
ならば。

『違うの』

そんなキレイなものじゃないの。わたしは汚い。汚い。嘘なの。全部、嘘。ごめんなさい。ごめんなさい。だけど「今」は嘘じゃない。嫌わないで。棄てないで。見限らないで。
わたし、ずっと、貴方を見下してた。

見下して、た。
両手で顔を覆った彼女は言った。剥離していく温かさは、ずっと偽物として存在していたものだった。皹割れた隙間から見えた暗がりに、私は呑み込まれそうになるほどの恐怖を覚える。
彼女の懺悔は続いた。

こんな体で外もまともに出られないから。周りの人がわたしを「可哀想」って言うたびすごく惨めになった。腫れ物に触るみたいな態度がすごく辛かった。「普通」に生きたかった。不幸は嫌だった。だから、わたしは、安心、した。

『普通』を知らない、可哀想な人間を前にして。それはさぞかし滑稽に映ったのだろう。

『わたしは、この人と比べたら全然可哀想でも不幸でもないって』

安心した。安心したの。だから一緒にいたの。親に見限られた可哀想な人。親族から邪険される寂しい人。英雄にも人にも成り損ねた不幸な人。

――良かった。
わたし、だいじょうぶだ。

つかの間の優越感。でもすぐに罪悪感が襲ってくる。だから償うようにそばにいた。傲っていた。わたしは汚い。最低。最低。最低な人間。ひどい。本当に、わたしはひどい。

つじつま合わせの、愛情だった。


『でも、嘘じゃ、ない』

繰り返してきた今までの時間で、確かに想いを抱いていたのも、嘘じゃない。

『だから、ひとりにしないで』

世界で人は、どう足掻こうとひとりだから。

つじつま合わせの恋慕。後付けの愛情。罪悪感を塗り潰す為の、時間。
何一つとして、私が世界に望んだモノは手に入らない。今までそうだった。なら、今回もそうだ。彼女との倖せは、手に入らない。それでも掴もうと手を伸ばす彼女に引かれ、不安を引きずりながら生きていく。
子供ができたことも、私には不安要素の1つだった。子供が生まれたら手に入らない。彼女との未来も手に入らない。手に入らないなら望まない。望んでいなかったのに。何故、彼女はNを生んだのだろう。リスクを伴うくらいなら堕胎してしまえば良かったのだ。どうして、Nを生んで自ら命を絶ったのか。リスクを乗り越え生き長らえた命を。自ら命を絶つ理由がどこにあったのか。

――私を、見限ったのか。

あの子を生んだ日、優しく笑う彼女はあの子に名前を付けた。『N』ではない。あの子自身の名前だ。これからが楽しみだと笑った次の日に、病室にあった果物ナイフで手首を切った。飛び散る血痕が、今でも生々しく蘇る。

何故。

棺の前で、墓前で、何故置いていったのだと彼女を責める。そして責め立てた自分に罪悪感が生まれ苛まれる。守れなかったくせにと、自分を責め殺す。次には彼女に許しを乞い想いを嘯く。
そしてまた、彼女を責め立てる。その繰り返しだ。
まるで、血を吐くような日々だった。繰り返し、繰り返し、生きながら死んで、再び目を覚ましてまた死ぬような毎日だった。
出口はない。窒息する。自分が死んでいく。あの子が。彼女が残した、あの子を。

『ほんとだよ。モノズがしゃべったんだよ』

――私が成り損ねた英雄に、この子はなるべく生まれたのか。彼女を犠牲に。私の人生を犠牲に。劣等感が思考を飲み込む。ぶつけようのない苛立ちに襲われた。それと行動を起こすのは同時だった。あの子から名前を取り上げた。『N』という記号だけを残した。

目的を。望まれたことを。成り損ないと言うのなら、完全なヒトと成り、目的を成せばいい。世界も、人も、生き物も、総てが嫌悪の対象だ。望まれた通り神話の再現をすればいい。最悪な形で。

それが世界への復讐だ。

間違っていると、『普通』の人間は糾弾するのだろう。だが、普通すら得られない私には、理解の範疇を越える。一般論を振りかざされたところで、私が目的の達成を辞める理由にはならない。Nへの教育を虐待と称されても私には理解出来ない。私はただ、そう育てられたから、そう育てただけだ。

――人の正しい愛し方など、学び損ねた。


「……後悔などしておりません。Nに対する認識が道具程度であったことも、また事実」

目の前に立つ女を見て、胸中に淀む感情を噛み潰す。悲痛に歪むその頬に触れた。
ようやく、わかった気がした。何故今まで気付かなかったのか。いや、気付きたくなかったのだ。

ノトは彼女と印象が被る。

自分を責め立て、孤独に怯える瞳も、縋るような姿も。滑稽で愚昧だ。ひどく愚かだ。――その、愚かさすら愛おしく思うのなら。
笑える話だ。
現実に諦念を抱く姿が自分に似ていると嘯きながら、本質は、似て非なるものだ。
私と違って、彼女は人の愛し方を知っている。

その現実の差から目をそらしながら、悟ったふりをして活きていくのだろう。




20110427
修正:20110821




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