tearless greif



『まだ若いのに』

同情の言葉が、機会仕掛けのように繰り返される。言いようのない嫌悪感が込み上げ、頭の奥でまた1つ、影が広がった。真っ白なシーツを染め上げる赤は、自分の目と同じものだ。傍らで保育器に入れられた、生まれたばかりの子供が金切り声を上げて泣き叫ぶ。細く白い手首には、赤黒く変色した血がこびりついた刃物が寄りかかっていた。
息を殺すように嗚咽を飲み込む。ただ自分の無力さを呪った。

『倖せだったはずなのに』

――うるさい。
葬列が成すノイズと赤ん坊の泣き声。ジワジワと、自分自身が死んでいくのがわかった。




現実がどの程度のものかなんて、知っている。知っているから、詰まらない理由をつけて、美化して、自分に都合の良い理由を付けるのだ。
幼稚で、陳腐で、平々凡々たる私が弾き出した幻想だ。夢だ。虚夢だ。
それに孤独は嫌だったから。なのに誰かと一緒にいると、失うことが恐くなった。だったら独りがましだと繰り返す。矛盾している。現実に臆病な自分が、虚勢を張る。どちらも選べない。だから都合の良いように理由付けをして、適当に作った幻想に縋るのだ。
幻想は優しくて温かくて倖せだ。そうして夢を見続けることができたなら、恐れるものなどないのだろう。

だから、もう夢を見ない。





「意外に早く済んだようですね」

玄関のドアを開けるなり、いつもと代わらない声が鼓膜に触れた。リビングのソファーに腰を下ろしていた彼は、読んでいた本のページに栞を挟んで傍らに置く。その一連の動作を眺めながら、私は「ただいま」と口にしながら笑みをしつらえた。意識するほど、平生の自分がわからなくなっていく。小さな罪悪感が頭の奥を焦がした。

「お客さんが予定よりも早く来てくれたので」
「そうですか。……昼食は、もう済ませましたか?」
「まだです。だから帰りに安かったパスタを買ってきて……」

言いながら、右手に持ったビニール袋を持ち上げた。彼はそれに僅かに笑みを浮かべると、ゆっくりとソファーから立ち上がる。そしてキッチンに立ち、視線をこちらに向けた。

「ちょうど良かった」
「え?」
「いえ、貴女が早く帰ってくると踏んでいたので、私もまだ昼食は取っていません」
「あはは、わかっちゃうなんてすごいですね」
「家を出るとき、浮かない顔をしていましたからね」
「……そう、ですか?」
「隠し事が下手な人間の、嘘など容易に綻ぶ」

真っ赤な瞳が向けられる。息が詰まった。
――気付かれた。
何が、なんて答えはすぐに出てこない。代わりに怖気が背筋を這いずり、萎縮した。リビングの入り口に立つ私とキッチンにいる彼とでは確かに距離があるのに、何故か至近距離で睨まれているような威圧感があった。心臓がゴトンと鈍く鼓動する。視線に耐えきれず、逃げるように足元を見た。
罪悪感、引け目、萎縮する。凌駕されている。

「Nに会ったのでしょう」
「!」
「……私のことを、聞いたのでしょう」
「――っ」

N君の姿が頭の中で再生される。途端に罪悪感はさらに膨れ上がった。どうしようもない自己嫌悪が爪を立てる。次々と生産される、自身を責め立てる言葉に唇を噛んだ。頭の中でわかっていながら、私自身がそうしたはずだ。
私は、自分で――。

「すみません……」
「……」
「言い訳は、しません。聞いたことは事実です」
「素直ですね」
「でも、お、追い出すとか絶対ありません。出て行って欲しくない、から」
「……」
「ここに、いて欲しいから」

だから、何も知らないわけにはいかない。勝手な解釈に過ぎないことはわかってる。無知を理由に勝手な行動が許されないことも、わかっている。
同じくらいに、彼が過去に行ったことも社会的に許されないことだ。あの子から見た彼が酷い人間に映ったことは、あの子にとっての現実だった。私が彼を弁護したいのも、勝手な贔屓目だ。
縋るように引き止める私の姿は、ひどく滑稽だろう。私が彼に見たのは幻想に過ぎない。適当な理由付けで出来上がった夢は、不都合から逃げては足場のない不安に煽られ、精神を削ぎ落とすだけの日々だった。なら、確固たる現実を手にしたとしたらどうなるのだろう。嫌悪と自責の念と劣等感に纏わりつかれた日々に転換されるのだろうか。
楽な生き方などない。どこかしらで欠陥が生じる。それを認めるか、目を背けるかの話なのだ。
落としていた視線を、ゆっくりと持ち上げる。いつの間にか目の前に移動してきた彼の姿に、覚悟を決めるように赤い瞳を見据えた。

「私は……」
「――1つ、教えてさしあげましょう」
「!」

不意に口を開いた彼に、思わず肩が震える。赤い瞳が細められた。

「私の名前に込められた意味を、前に話ことを覚えてますか」
「……は、い」

――不協和音。
ピアノの鍵盤と和音が脳裏に蘇る。その歪に重なる音色が作り出す不安に背骨が軋んだ。リビングの隅にあるピアノが視界を掠める。

「不幸になる、という幼稚な表現が1番近いでしょうか」
「え……」
「どの道、貴女には不利益しかありませんよ」

冷ややかに笑む貌に、喉の奥が絞められる。まるで突き放すようなその表情に、たまらず手を伸ばした。指先が彼の服の袖に深い皺を刻む。
何か、言わなければ。
言わなければダメだ。
言葉にしないと。
カタチにしないと。
手が届かなくなってしまう、その前に。

「誰も」

低く言葉が紡がれる。底の見えない暗がりを宿した瞳が、どこか遠くを見ていた。
……何故、そんな顔をするのか。

「倖せになれはしない」

誰がそんなことを言ったのか。
何故そう思うのか。
何が彼にそう思い込ませるのか。

「幻想≠ネのですよ」
「!」
「貴女が思い描くキレイな未来は、夢なのですよ」
「……どうして」
「そんなものはないと、彼女≠ェ口にしていました」

彼女、――彼の亡妻。
どくりと波打つ熱に、いいようのない感情が波紋する。思考が泥ついた感情にジリジリと焼け焦げた。気持ち悪い。
彼の白い指が伸びてくる。頬を這い、唇をなぞった。

「Nも知らない事実を、貴女に教えてさしあげましょう」
「!」
「彼女は見限ったのです」
「見限った……?」

指先が離れる。冷たい白に覆われた世界が、窓の向こう側で沈黙していた。彼はそれを視界に収めながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「……私を、Nを、総てを」
「どういう」

上手く言葉が出てこない。心臓が早鐘を打つ。頭の中で渦を巻く感情が攪拌された。不安が膨張する。彼は視線を足元に落とし、呻くように言った。




「彼女は、Nを生んだ翌日に自殺したのです」








20110409
修正:20110821




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