countless pain


『独りだよ』
『どうせ、独りぼっちだよ』
『未来≠ノはね、誰かと一緒なんてあり得ないんだよ』
『そんな優しい世界は幻想だよ』
『虚夢だよ』
『ゆめだよ』
『だって、そうでしょ』
『ねえ、ゲーチス』

――私は。

私は、逃げ出した。
『彼女』に背を向けた。背を向けながら、縋っていた。利己的に生きていた。
何故、あの時呪詛を吐く『彼女』を受け止めなかったのだろうか。
もし受け止めることができたならば、少しは今が変わったのだろうか。
もっと早く、『私たち』を止めてくれる人間が現れただろうか。
この身を浸す現実は、もっと生きやすくなっただろうか。世界は変わっただろうか。

『どうせ、貴方も、あの子も、ずっと独りぼっちだよ』
『わたしも』
『わたしも、ひとり』

彼女を――。
それに気付きはしまいと、私は総てに蓋をした。



わかっていてやっているのだから、最低なのだ。最低だと、わかっていながら知ろうとするのだから、最低なのだ。
繰り返し繰り返し、脳内で反響する事実が私を責め立てる。もう1人の私が内側から爪を立て、何度も何度も侮蔑を吐いた。
私は、最低だ。


「――それでも君は、彼を信じるのかい?」

雪風が窓を叩く。降り積もった雪同様に、冷たく層を成す言葉は心底から内部を冷やしていった。
暖房が効いているはずなのに、何故か指先が異様に冷たい。罪悪感がまた1つ波打ち、熱を奪った。
窓辺に立つN君は、ここに来た時からずっと外を眺めている。淡々と紡がれる言葉と過去に、呼吸がしづらくなった。馴染みあるはずの仕事場である本屋が、別の空間に思えた。
N君自身の境遇、彼との関係、彼がしてきたこと、N君がしてきたこと、失ったこと、不幸、残酷、冷たい、酷い、悲しい、過去の話。
……何よりも、そこまで大きな事件になっていたプラズマ団のことを知らなかったのだから、つくづく自分の時事への疎さに嫌気がさす。
知っていれば、もっと上手く立ち回れたかもしれないのに。
しかしそれ以上に、知られたくないであろう彼の過去を詮索している自分自身に、吐き気がした。

「大体は、わかった」
「ふうん。曖昧だね、君」
「そんなことないよ」
「そういう人間はね、カンタンに棄てられるんだよ。ゲーチスは頭の悪い人間は嫌いだから」
「……」
「つけ込まれて、利用されて、最後には棄てられるんだ」

湖面の瞳が向けられた。凍り付いた瞳孔の奥で、仄暗い光が揺れる。背筋を氷塊が滑り落ちた。

「僕みたいに」
「……そんなこと」
「君が見てるゲーチスは嘘だよ。夢だよ。幻想だ」
「でも、私は」
「ゲーチスは優しくなんかない」
「そんなこと、そんなこと、ないよ」
「冷たい人間だ」
「あの人は、優しいよ」
「嘘だ!」

ガタンとけたたましい音を立てて椅子が倒れた。距離を詰めたN君の白い指先が、肩に食い込む。唐突に体にかかる力に、耐えきれずよろめいた。視界が大きく揺れ、そのままテーブルの上へと背中から倒れ込む。視界は天井と電気の色で埋められた。私を見下ろす灰青色の瞳に、息を呑む。
――言葉が上手く出てこない。

「優しくなんかない。彼は僕を玩具みたいに作って、簡単に捨てたんだ」
「何か理由が」
「ありきたりな御託なんて詰まらないよ」
「でも、酷い人じゃ、ないよ」
「そんなの幻想だ」
「違う、違うよ。そんなこと、ないよ」

――そんなことない。
だって、あんなふうに笑う人が、自分の家族を。

『今生きているあれ≠ヘ、私と、彼女≠ニ、あの子≠フ、亡骸に過ぎない』

そう言った彼が、自分の肉親に何の感慨も抱かないわけがない。脳裏に過ぎる悲しい横顔が、繰り返し繰り返し浮かんでは消えた。喉に詰まって上手く紡げない言葉を、恨めしく噛み潰す。
幼稚で陳腐な言葉しか思い浮かばない。こんなものは綺麗事で、気休めにすらならない。「現実」を知っている人間には、「虚構」の話だ。N君は痛々しいほど、何かに耐えるような表情で譫言のように言葉を繰り返した。私を見下ろしながら、彼の肩を掴む細い指には力が加わる。

「嘘だ、嘘だよ。幻想だよ。夢だよ。そんなもの。バケモノを……ヒトとして成り損なった僕を、あの人は最初から道具としてしか見てなかった」
「でも……!」
「君に何が分かる」
「私は」
「嫌いなんだよ。あの人は、自分の思い通りに育たなかった僕が煩わしいんだ。だから棄てたんだ。要らないんだ。目を背けたいんだよ。僕を見て、こんなはずじゃなかったって……あの人は」
「……それは」

――まるで、親の期待に応えられなかった自分を恨むような言葉だ。
見据えた先にある灰青色の瞳が震えた。解らない彼とこの青年の繋がり方に、のうのうと生きてきた自分に嫌悪感が発露する。
何も知らない自分、本人のいない場所で過去を詮索している自分、幼稚な自分、滑稽で愚鈍な自分、平々凡々たる自分。激しい嫌悪と苛立ちが思考を焼いた。私は、彼らに接するにはあまりに凡人過ぎた。彼らが抱える痛みは死に直結するほどの絶望で、自己の在り方すら不安定にする。手を伸ばしたって、届かない。そんな深い深い暗がりの中で呼吸をしている。

私が触れる余地なんてない。唇を噛み、その瞳から目をそらした。同時に肩を掴む指先が離れる。

「……ごめん」
「!」

我に返ったように、N君が離れた。冷たい空が気道に流れ込み、体内を冷やした。ゆっくりと体を起こすと、青い瞳は髪に隠れる。

「わかってるんだ。僕も、ゲーチスも、そもそもが間違いで、捻れていて、歪曲してて」
「N君……」
「『普通』ってものを知るたびに、惨めになるんだ。社会からはみ出ているのは明らかで、社会に馴染むには、手遅れで、生き方も解らない。だから、どうしていいかわからない。独りで、同じ空間に誰かと居ても孤絶されてるみたいで、途方のない、不安が」
「……」
「それがきっと僕の現実なんだ。でも……」

遠くを眺めるように、その瞳は細められた。軋む胸中に息が詰まる。彼のそばへと寄ると、彼は顔を覆って俯いた。

「でも、どうして」
「N君……」
「どうして、踏みにじられなきゃならないんだろ……」

たった1人の、肉親に。
その現実の重みは、私には計り知れない。
――なら、あの人はどんな気持ちだったのだろう。
N君のそばにいたとき。妻を喪ったとき。地方を震撼させる計画に携わっていたとき。自分の肉親を突き放すとき。総てを捨て去ったとき。
私と、過ごしていたとき。

『置いていく側は、置き去りにされる側の思いを、どう解するのでしょうね』

何を思っていたのだろう。
置いていく気持ち。置いていかれる気持ち。あまりにも深く暗いところにあって、私では覗き見ることすら困難だ。
きっと彼は、私のような凡人が隣に並ぶことすらできない人間なのだろう。向き合えるほどの位置にもいない。
彼が向き合うべきは、私ではない。
おもむろに手を伸ばし、薄く細い背中に触れた。そしてさするように撫でる。肩が震えた。
……彼と同じ色の髪。

「でも、見限らないで、いてくれたでしょう」
「……!」
「少なくとも、きっかけさえなければ、お父さんはそばにいてくれたんでしょう」

希望はあるだなんて、無責任なことは言えないけれど。

「でも、恨んでないのなら、憎んでないのなら、やり直すことくらいできるよ」
「……始まってもない関係なんて、やり直しようがないよ。第一彼は僕に無関心だ」
「N君は、どうしたい?」
「え……」
「どうして、私を訪れたの?」

少なくとも、父親という存在に未練があったはずだ。どんな形でも、感情でも、親と子の関係は呪いにも似ていて、互いに互いをがんじがらめにする。それから解放されたいと願うのは、転じて親に愛されたい子供の本能だ。
――ならばシンプルなところから考えていこう。答えだってきっと簡単だ。簡単で、単純で、詰まらない。そんな答えでいい。
彼が向き合うべきは。

「またおいで」
「……」
「これ、私の携帯の番号。本屋に来るときに言ってくれれば、私もここに来るから」
「どうして」
「え?」
「どうして君はゲーチスを匿うの。何がしたいの。どうして彼を信じたいの」
「……」
「わからないよ」

彼が向き合うべきは、たった1人の彼の家族だ。
この子はきっと、私の世界から彼を切り取って奪っていく存在だ。それで彼が私のもとを去っていくならば、私はきっとこの子に嫉妬するのだろう。
行って欲しくない。置いていかないで欲しい。独りになりたくない。寂しい。
――縋るような思いは、日増しに肥大する。
だけどそれ以上に、彼が。

「『すき』なのかもしれないね」
「!」
「なんて」
「……」
「だから、世界で独りぼっちなんだだって、思って欲しくないのかも」

出会った時から気付いていた。似ていると言われて確信した。
纏わりつく孤独感も、寂寥を押し殺したような背中も、何かに失望したかのような瞳も。
蓋を開ければ、ひどく単純な答えが出てきた。
ならばそれを埋めるものは、私が一番わかっている。

「私は愚鈍で、詰まらない、頭の悪い人間だけど」
「……」
「人並みに、誰かを大切に思うことくらいできるよ」



――だから、独りぼっちだと思わないで。






20110405
修正:20110821





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -