endless solitude


「明日の昼に街に来て」
「そうすれば教えてあげる」
「僕が知ってること」
「君が知らないこと」
「君は可哀想だね」
「何も知らないんだから可哀想」
「きっと全部奪われてしまうよ」

僕みたいに、踏みにじられてしまうだけだよ。





「夕方には帰りますね」
「ええ、お気をつけて」
「行ってきます」

荷物を抱え、どこかぎこちないとすら思える笑みを顔に貼り付けて彼女は出ていった。その細い背中がドアの向こう側に消えるのを見届け、目を伏せる。今日は急に仕事が入ったのだと、彼女が苦笑混じりに言ったのは朝食の時だった。
躊躇うような様子すら見せて言葉を紡いだ彼女に、私に知られては不都合な事があったことくらいは容易に想像がつく。
先日、タマーオブヘブンに行った時にはNに会ったとサザンドラが告げてきた。
Nは精神的に未発達でありながらも聡い。おそらく勘付いて行動を起こす頃だろう。――いや、あれが私に関心を持っていることは考え難い。良心などという代物が備わっているのならともかく、関心すら抱かない相手に動くなどありえない。
もっとも、ノトに情でも持っているなら話は別だ。

「どちらにせよ潮時、か」

独りきりの無音の部屋の中で、呟きが虚しく響いた。窓から見える外の世界は、白を着飾って沈黙している。彼女はもう時期、店に着くだろう。
……もともとこのような生活が長く続くとは思っていない。
ぬるま湯に浸っては、ふやけていくだけの毎日だ。自尊心も、矜持も、積み重ねてきたものも、降り積もってきたものも、どろどろに溶けて己の内側に沈殿していく。濁っていく。曇っていく。不明瞭になっていく。
――ここに居れば、確実に堕落する。
かつて喪ったモノを補うように身に付けたものが『力』ならば、それを棄てた私に残るのはその『器』だ。ここは、『器』を壊していく。その内側にあるものを、暴こうとしている。『器』の中で、『力』により覆い隠していたモノを暴こうとする。
張り付いた現実が、許しはしないと自分を責め立てる。

ここは、嫌だ。

懐かしくなる。虚しくなる。取り返しがつかないことを思い知る。苛立つ。自分がどんどんダメになっていくのがわかる。無駄だと思い知る。堕落していく。
『彼女』のことを、忘れてしまいそうになる。
今年は命日に花を供えられなかった。忘れたことなどないのに。喪ったことで穿たれた空洞が埋まってしまったかのような錯覚をする。それは決して、あってはならないことだ。組織の仕事に没頭していても、いつだって頭の片隅では覚えていた。忘れなかった。

だというのに。ここでは色褪せいく。くすんでいく。輪郭が霞んでいく。朧気になっていく。ぼやけてしまう。
――ダメだ。
――あの女の、せいで。
――確実に懐柔されていく。
――甘くなっていく。

「……バケモノが、こんなこと、笑える冗談だ……」

ちょうど良かった。
ちょうど良い隠れ蓑だった。
だから利用した。
情に絆されやすい人間だった。
同情を誘えば簡単に扱える。
何も言わない。
吹聴もしない。
扱いやすい人間だった。
本当に、馬鹿な人間だ。
どうしようもなく他人に甘い。だからすぐに付け込まれる。利用される。愚鈍な女だ。馬鹿な人間だ。詰まらない人間だ。疎外されるのを恐れ、死に物狂いで社会にしがみついている。無様なだけだ。頭の中で侮蔑を吐く。彼女はそんなこと気付かずに笑いながら日常を刻む。
刻まれていく日常の中で、確実に剥離していく、彼女に対する侮蔑の念。

そんな思いを抱いたことにすら後悔したと言ったら、彼女は笑うだろうか。

それでも願わずにはいられない。
せめて、彼女が世界に淘汰されないよう。
環境に淘汰されないよう。
少なくとも居場所として与えられたこの場所に、感謝はしている。
それがたとえ幻想であっても。
虚しいだけの幻想であっても。
詰まらない幻想であっても。

それは、優しい幻想だ。

「……サザンドラ」

テーブルの上で、小さく震えたボールに目を細める。いい加減、逃亡するだけの毎日に厭きて手放した他のポケモンたちと違って、何故かこれだけは離れなかった。最期を見届けるつもりなのか。向けられる忠誠心に、根負けして手元に置いているのは事実だ。

「そろそろ、次へ行く」
――よろしいのですか。
「未練などない」
――彼女は。
「もう、いい」
――そばにいるのでは。
「長くここに居すぎた」

彼女にできる唯一のことはたかが知れている。
彼女に余計な火の粉が降りかかる前に、ここを去ることだけだ。








20110327





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