doubtless will

名前とは、有象無象の判別に使われる固有名詞だ。だから親は子に名前を与えるとき、そこに意味を孕ませる。強く在るように、優しく在るように、倖せで在るように。挙げればおそらくきりがないだろう。
――遠い昔、一度だけ自分の名前の意味を父に尋ねたことがあった。父は、いつもの感情の抜け落ちた赤い瞳を微かに見開き、驚いた素振りを見せた。そして僕と視線を合わせ、その瞳を穏やかに細めながら言葉を紡いだのだ。

『誰にも言わないよう』
『うん』
『チェスと呼ばれるゲームでは騎士≠表すのにN≠使います』
『きし?』
『ええ、闘う者です』
『たたかうの?』
『貴方が、貴方であるために。貴方が守るべきものを守るために、いずれは闘うときがくるでしょう』
『ぼくは、たたかうからN? 守るからN?』
『……どちらも、私から意味を込めて』

――お父さん。
夢も未来も居場所を失った僕は、何と戦えばいいのですか。何を、守ればいいのですか。
父さん、教えてください。







重い瞼を持ち上げると、朝の淡い日差しが瞳孔に滑り込んだ。眼球の裏側が眩しさに刺激され、思わず一度固く目を閉ざす。肌を包む冷たい外気に、吐息が白く染まる。小さく身を捩ると、頬から何かが滑り落ちた。それは首のあたりで止まっている。ビクリと体を震わせ後に、ゆっくりとそれを目で追った。
同時に昨日はソファーで眠ってしまったことを思い出す。そして先ほどまで頬にあったものが、手のひらであることに気付いた。

「……」

そっと視線を上げる。すぐそばに、ソファーに座ったまま首を深く擡げている彼の姿があった。
……どうやら眠っているようだ。
体を起こすと毛布が床に落ちる。
それを拾おうとさらに体を動かすと、彼が薄く瞼を開けた。それに一瞬動揺しながらも、笑みを浮かべながら口を開く。

「あ……おはようございます」
「……ああ」
「あの、昨日はすみません。何だかすごく子供じみたことを……」
「構いませんよ」

ほんの少し、眩しそうに彼は目を細める。口元だけで小さく笑った彼は、ゆっくりと立ち上がった。

「朝食は私が作ります。貴女は、もう少し寝ていなさい」
「! 平気です。それに今日は買い出しのために街に下りようと思ってますし、もともと早く起きて準備する予定だったので」
「だったら尚更ゆっくりしていなさい。無精の貴女の気が変わらないよう、早く朝食を作ります」
「な、何ですか無精って」
「間違っていますか」
「……」

否定するにも思い当たる節が幾つものあり、つい返答に詰まる。……1週間のうち多くて6日は家で過ごしてしまっている私に、言い訳の余地はなかった。それでも何か返そうと1人思索に耽っていると、彼は可笑しそうに笑みを零した。キッチンに向かう背中を眺めながら、まだ自分が寝間着姿であることに気付く。それに着替えるべく、慌てて自室へと一旦戻った。

朝食はトーストとスクランブルエッグだった。彼の作るスクランブルエッグは、食感がふわふわしていて味付けも絶妙だ。私好みだったりもする。一体どこでこんな料理のスキルを身に着けたのだろうか。そんなことを気になりはするが、それよりも咀嚼する方に意識が向かい、疑問は簡単に消えてしまう。
トーストをかじる私に、彼は苦笑混じりに口を開いた。

「無理をしていますね」
「!」
「寝れば立ち直るほど、単純な思考回路をしてはいないでしょう」

その言葉に、動きが止まる。意識の奥底へと、強引に追いやった感情がくすぶった。彼は、どうにもそういう点では勘が鋭い。
……一瞬でも遠ざかった感情が、表に出ないよう忘れたことにしたのだ。いつまでもそんなことで露骨に落ち込むわけにはいかない。だからもう大丈夫だと、そう思うことにした。それで元に戻るはずだった。
じわりと視界が滲む。
角膜を覆う熱を零すまいと、とっさに服の袖で目元を拭って俯いた。

「よく泣きますね」
「……気の、せい、です」
「大人でしょう」
「……」
「……貴女らしいといえば、貴女らしいですね」

傍らにあるマグカップの縁を指でなぞりながら、彼は微かに笑った。

それから朝食を食べ終え、いつも通り片付けをし、一息つくためにお茶を飲んだ。その最中、彼はふとしたように荷物持ちについて行くと言った。今まで2人で外に出ることなどなかった。それに、彼は極端に人目を厭っている。それだけ彼の言葉には目を見張った。しかし反面、浮き足立ったのも事実だ。
コートに袖を通し、急かされるように玄関に向かう。すると「きちんと温かい格好をしなさい」と、彼からマフラーが飛んできた。
外は雪が降っていた。





「もう降らないと思ってたんですけどね」
「まだ暖かくはなりませんよ。あとひと月は先の話でしょう」

言葉に呼応するように、吐息が真っ白に染まる。傘の上にはまばらに雪が積もり、指先はかじかんで感覚がほとんどなかった。手袋をしてくれば良かった。定期的に持つ手を変えては、片手をポケットの中に忍ばせる。雪に濡れた街の路面が、鈍く景色を反射していた。
暖かい家の中に閉じこもってばかりだったから、つい冬の寒さを忘れてしまいがちになる。最後に外に出たのはタワーオブヘブンに行った日だった。そうなると、5日ぶりになるのだろうか。変に悩んでは落ち込んだりしていたから、ずいぶんと長い時間にも感じた。

「あ、ちょっと店に寄ってもいいですか?」
「ええ」
「新着図書が届いているかもしれないので、それを並べて置きたいんです」

これでも本屋の主だ。最低限の新しい本はたまにだが注文して、店頭に並べている。一方で売れる本の数の方が少ないので、狭い本屋はますます密度を増している。赤字と言えば赤字かもしれない。しかし贔屓してくれるお客様はいるし、母から譲り受けた遺産もある。生活には困っていない。

本屋に着くと、玄関にはビニールに包まれたダンボールがあった。やはり届いていたようだ。傘を閉じ、壁にそれを立てかける。鍵とドアを開け、ダンボールを抱えようと身を屈めた。すると私より先に、彼はそれを持ち上げる。そして本棚のそばに置いた。

「以前来たときよりも、綺麗になりましたか」
「これでも掃除しました」

私の答えに目を細めた彼は、近くにある本を1冊手にとり表紙を捲った。……表紙のタイトルを見る限り、ポケモンの進化論や生態に関する本だ。こういった本を彼は比較的好む。この後は買い物に行く予定だが、読み終わるまでそっとしておきたい気もした。
レジのそばにあるヒーターのスイッチを入れる。間もなくして温風が吹き出て、それを合図に口を開いた。

「本、読んでていいですよ」
「!」
「私さっさと買い物行ってきますね。あ、食材だけなんで1人で平気です。それにお店はここから3件離れた向かいの場所にありますし。すぐに戻ってきます」
「いえ、私も行きますよ」
「大丈夫です。それに、そこのお店の奥さん噂好きで」
「……なら、お言葉に甘えましょうか」
「はい、行ってきますね」

玄関を抜け、再び傘を差す。身を切るような冷たさに、つい肩に力が入った。雪はまだ降り続いている。食材を買いたい店は、家を出てからも見えるほど近くにあった。
……早く買って戻ろう。
思い早足になった時だった。

――いつかと同じように、何の前触れもなく肩に圧力がかかる。

あまりに唐突なことに、心臓が跳ね上がった。ザワリとうなじを冷たさが伝う。傘が手から滑り落ち、乾いた音を立てて路面に落ちた。ぎこちなく振り返る。
柔らかい緑色が視界で揺れ、シャドーブルーの瞳が鋭い色を宿していた。

「やっと」

真っ白な息が宙に霧散する。心臓の鼓動が嫌に体内に響き渡った。

「見つけた」

――N′N。
あの日タワーオブヘブンで出会った青年が、息を切らして私の前に現れた。







20110307




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