soundless crying

あの日からNの様子がおかしくなった。
毎日毎日神経質に苛立っていて、1人でふらふらとどこかへ消えてしまうことが多くなった。本人は全くの無自覚らしく、試しにそれとなく聞いてもぎこちない笑顔で「大丈夫だよ」と返すばかりだ。
しかしそうなった原因は察しがつく。あの日、タワーオブヘブンで見たサザンドラだ。Nはそれをゲーチスのものだと言った。ポケモンの言葉を解する彼が言うのだ。そのサザンドラは、ゲーチスのもので間違いないのだろう。しかしそのサザンドラは、偶然その日に出会ったノトという人と共に逃げるように去っていったのだ。見知らぬ女性が、あの男のサザンドラを連れている。彼女は、一体何者なのだろうか。

そしてNは、おそらくゲーチスを探している。
まるで機械仕掛けの人形を作るように、無機物的に、自分を育てて「バケモノ」と言い放った父親を探している。
彼をそう突き動かす感情が憎しみなのか、怒りなのか、はたまた子の親に対する思慕なのか。僕にはどうにもわからない。ただ、Nの中には間違いなく未練があった。

しかしNは、ゲーチスを見つけたとしてどうするつもりなのだろう。怒りをぶつけるのか。悲しみを吐き出すのか。
未だ未発達な彼の心は、何を求めているのだろうか。






「……また、眠れなかったようですね」
「!」

不意に伸びてきた指先が、重い瞼を撫でた。食器を洗っていた手が止まる。蛇口から流れる冷たい水に晒されていた手から、スポンジが落ちた。流水に泡が剥がされ、排水口に吸い込まれていく。
……いつの間にか隣に立っていた彼から、小さな溜め息が零れた。唐突のことに思わず肩を震わせると、彼は眉をひそめる。

「体に障りますよ」
「そう、ですか。……そう、ですよね」
「……」

乾いた笑いを零しながら、誤魔化すように残りの食器を手早く洗った。
……確かに、眠れない日が続いている。しかしその理由はあまりに子供じみて、滑稽で、それでいて情けない。喉元までせり上がってきた吐息を飲み下し、濡れた手をタオルで拭いた。

――不安ばかりが膨張していく。

脳裏にあの日出会ったNという青年と、彼の姿が重なる。そのたびに罪悪感がどくりと波打った。「行かないで欲しい」と懇願すれば、彼が出て行くことはない。私が切願すれば、彼は応えてくれるだろう。しかしそれは転じて彼を縛り付けることになる。この狭い箱の中に、閉じ込めることになる。
そこには、虚しさしか残らない。
では私はどうしたいのだろう。

今までこの家で独りで生活してきた。独りで生きることには、慣れていたはずだった。母が亡くなり、父が出て行ったあの日に、独りでも大丈夫だと、自分自身に言い聞かせてきたのだ。
最初の3ヶ月は寂しくてたまらなかった。でも半年過ぎると寂しさが薄れてきた。独りでも私は平気なのだと、安堵した自分を見つけた。そして安堵を抱えながら、1年が経つ。安堵の中に、虚しさを見つけた。それは店でいろいろな人と会うたびに募っていく。

自分の内側に、ぽっかりと穴が空いていることを知った。私はいつの間にか空っぽのようになっていた。
楽しくも、寂しくもない。倖せでも不幸でもない。辛くない。苦しくない。でも、嬉しいことも、安らぐことも、忘れてしまった。
それはそれで良かったのに。
彼を見つけてしまった。思い出してしまった。
途方もない不安に、また、恐くなる。いつかまた1人になるであろう耐え難い寂しさに胸が軋みをあげる。
だから私は自分のことしか考えていない。独りが寂しいから出て行って欲しくない。独りが嫌だからここにいて欲しい。
――自身の執着にも似た浅ましい思いに、彼を振り回すのは間違っている。

――あのNという子が、彼と繋がりがあるならなおさら。

私と違って帰る場所があるのかもしれない。待っている人がいるのかもしれない。それを黙殺して、この家に縛り付ける権利など誰にもない。
たとえどんなに感情がそれに反していようと、その時が来たなら、私は笑顔で送り出さなければならない。
あの日、母を送り出したように。私は、もう、大丈夫だと。

「――部屋で休んだらどうです」
「!」
「今日は仕事がないのでしょう」
「だ、大丈夫ですよ。元気です」
「……」

訝しげな緋色の瞳が向けられる。それから逃れるように、リビングのソファーに腰を下ろした。背後に感じる視線に、ついぞ泣きたくなる。じわりと滲んだ視界に唇を噛み締めた。瞼に感じる熱を零すまいと、膝を抱えてうつむく。その姿すら、滑稽だと思った。背後に気配が近付いてくるのを感じ、ゆっくりと息を吐いた。

「ノト」
「……」
「貴女は……」
「途方のない、不安なんです」
「……」

聲が震えた。それを押さえ込もうと、次の言葉を考える。襲ってくる不安や寂しさに、息が詰まった。

「昔、両親がいるとき、両親がいなくなったときのことを考えたことがありました」
「……」
「母がいなくても、ご飯は作ることができるかなとか、父がいなくても、お金は稼げるかなとか、2人がいなくても、私は、独りじゃないのかな、本当に大丈夫なのかなとか」
「……それで」
「ちゃんと生活できるかな、1人で病院とか、買い物とか、行けるのかな……なんて。考えてたら、不安で不安で、怖くなって。今思うと、本当に詰まらないことなんです」
「……」
「でも私は小さくて、不安だったから母に、いなくならないでねって……母は、おばあちゃんになってもいるよって。でも……そんな、嘘で、だって、だって私のこと置いて、死ん……」

――いなくなってしまった。
両親が自分より長く生きられるなんて、都合の良いことはありえない。否が応でも、その庇護のもとから離れなければならない。わかっている。しかしわかっていたから、どうしようもなく不安だった。独りになる自分を思うだけで怖くて寂しくてたまらない。しかしそれは呆気なく訪れた。真っ暗な奈落に突き落とされたような絶望感に、自分の内側に穴が空く。
他者に対する甘えが、情けないことに今も私の中にあった。

「両親との別れは、誰にだって訪れるものです」
「……はい」
「確実に訪れる未来に対する不安など、無意味なものですよ。その時が来たら、人は驚くほど素直に受け入れてしまう」
「……」
「親に限らず、生涯添い遂げると決めた伴侶とも」
「――!」

彼の言葉に、反射的に顔を上げる。彼自ら彼自身のことを話すのは、ほとんど初めてだった。いつの間にか向かい側のソファーに座っていた彼は、自嘲にも似た笑みを浮かべる。

「子供などいらないと言った私の言葉を跳ね退け、彼女は子供を生んで呆気なく息を引き取りました」
「……」
「死ぬそのときまで一緒なのだろうと、愚かにも夢を見た時が、一瞬でもありました。それがこんな形で置き去りにされようなどと、一体誰が……」

一度言葉を切った彼が、宙を睨む。細められた赤い瞳が、どこか遠くを見ていた。

「置いていく側は、置き去りにされる側の思いを、どう解するのでしょうね」
「……」
「麻痺した感情を正常に戻して、喪失感のみを与えて彼女はいなくなってしまった」

彼は言う。自分もまた、置き去りにされた人間なのだと。置き去りにされた世界でひと≠ナあることを放棄した。それを子供にも強要した。
だから、社会で生きていくには、あまりにも欠陥した人間になってしまった。

「貴女は、私に似ている」

置き去りにされた可哀想なひと。だから利用した。利用された。傷の舐め合いのような飯事じみた毎日だった。しかしそれに満足している。不都合はない。
私は、その時の彼にとって「丁度良い人間」だったのだそうだ。彼に何があったのかはわからない。だが、彼が社会から隔絶された世界を望んでいたことには気付いていた。外に出ることも、人に会うことも、彼は厭っていたのだから。

「……だから、貴女のようなただの娘に懐柔などされないと、高を括っていました」
「……懐柔……?」
「私には、どうにもここは温すぎた。馬鹿馬鹿しいことに、未練があるのでしょう」
「え……?」
「いえ、また、これは機会があればお話しましょう。だから」

今日はもう、目を閉じてしまいなさい

「……少なくとも、私は今はここにいる。なら、今くらい安堵してしまってもいいでしょう」

伸びてきた手が髪を梳く。不安が飽和し、瞼からボロボロと零れた。嗚咽を噛み殺し、細く息を吐く。私は目を閉じた。


何故かどうしようもなく、N君が羨ましくなった。








20110301




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