loveless man

眠れない日というのは、別段珍しくはない。そういったことは、幼少の頃からよくあった。暗闇がたまらなく怖く感じる。意味もなく寂しくなる。不安になる。そんなとき、決まって他人の体幹の温度を欲した。独りではないという、物理的な証が欲しかった。母は幼い私を胸に抱き寄せながら、厭きるほど唄を歌ってくれた。眠りに就くまで、髪を撫でる手を止めないでくれた。
そんな母が亡くなった時も、私は眠れなかった。いや、母の体調が急変した日から、ずっと眠れなかった。
――別れが近付いている。もうすぐ行ってしまう。
不安。寂しさ。悲しみ。恐怖。感情が攪拌され、肥大する。眠れない。

今も、同じだ。

あの「N」という青年に会ってから、得体の知れない不安が胸中で疼痛を訴えている。漠然とした恐怖に思考が呑まれそうになる。あの子は何故彼を知っているのだろう。あの子は一体誰なのだろう。
彼が、連れて行かれてしまう。
そんな気がしてならなかった。
リビングのソファーの上で、自身の身体を抱き締める。……まだ夜明けは遠い。夜なんか明けなくていい。明けたら彼が消えてしまうかもしれない。そんな残酷な夜明けなど、迎えたくはない。
――意識の奥底で発露した小さな依存と執着心に、背骨が軋んだ。

「眠れないのですか」
「!」

いつかと同じように、背後からかかる声に肩が震える。気配がゆっくりとこちらに近付いてくるのが、足音でわかった。ひどくぎこちない動作で、そちらを向く。緋色の瞳が細められた。

「……あ……起こして、しまいましたか?」
「いえ、ただ、目が覚めただけですよ」
「そうですか」
「最近、眠れない日が続いているようですが」
「そんなことは……」
「何日か前に、タワーオブヘブンに行った日を境に」
「!」
「何かありましたか」

彼がゆっくりと、私の向かいに腰を下ろした。外から差し込む薄ぼんやりとしか明かりに、彼の色素に乏しい肌が青白く染まる。
目の前にある顔と、あの日出会った青年の影が不自然に重なった。

「無理に話せとは、言いませんが……」
「……あの」
「何か」

何かを言おうと、言葉が喉元までせり上がってくる。しかし同時に躊躇いが喉を絞めた。
私は何を聞こうとしているのだろう。
脳裏によぎる青年の姿に、言葉を飲み込んだ。
彼自身の過去のこと。息子のこと。妻のこと。家族のこと。どこから来たのか。どうしてここにきたのか。何故ここにいてくれるのか。誰なのか。何者なのか。
その問は詮索だ。詮索は、安定した今≠壊しかねない。ただ口を噤むことを選んだ私は、顔を伏せた。
冷たい夜の沈黙が肌を突き刺す。しかしそれは彼の吐息に破られる。感情を殺した声が、空間に落とされた。

「聞きたいことが、あるのでしょう」
「……!」
「サザンドラが、タワーオブヘブンであれ≠ノ会ったと言っていました」
「え……?」

あれ=H
網膜に再生される青年の姿に、心臓が嫌な鼓動を打つ。息が詰まった。冷たい空気が肌に纏わりつく。緋色の瞳が、感情がごっそりと抜け落ちた瞳で宙を見詰めていた。

「貴女には、関係のない話かもしれませんね」
「私は……」

何か、言わなければ。
言葉の一切が思考から散り、焦燥感が込み上げる。ここで言葉を発しなければいけない気がした。何でも良かった。黙っていたら、彼は簡単に姿を消してしまう。無口なだけの夜に潜む言葉を、手当たり次第に探した。本当に聞きたいこと。本当に言いたい言葉。そんなもの見当たらない。
だから、私は焦燥感から、おそらく1番触れてはいけない問を口にした。

「息子さんは、どうしているんですか?」

彼の、感情が死んだ瞳が瞬く。唇が弧を描き、間を置いて言葉を発した。


「殺しました」


時間が止まる。呼吸が止まる。思考が止まる。彼は、薄く笑っていた。

「妻の命と引き換えに生まれたあの子≠、この手で殺したのです」
「なにを」
「今生きているあれ≠ヘ、私と、彼女≠ニ、あの子≠フ、亡骸に過ぎない」
「……」
「そう、育ててきたのです」

現実感が遠退いた。深海を漂うような、不安定な感覚に思考が揺れる。
しかし同じように、彼の緋色の虹彩に囲まれた瞳が奥で揺れた。
かけるべき言葉すら見つけられない。息を呑み、目の前にある瞳を凝視した。視界が僅かに濡れるのをこらえ、手のひらを握り締める。爪が肌に突き刺さる感覚だけが、唯一感情の飽和に静止をかけていた。

「あれ≠ノ『化け物』と言い放った私に、誰かは私こそが『化け物』だと咎めました。……確かに、蛙の子は蛙と言いますからね」
「!」
「『人』に成りきれていないのは、私の方なのでしょう」

自嘲と共に言葉が宙に霧散する。ゆっくりとソファーから立ち上がった彼は、私のすぐ側へとやって来た。
……長いこと外気に晒されていた指先が、まるで凍り付いたように冷たい。
伸ばされた彼の手のひらが頬に触れる。夜気により冷やされた私の頬は刺すように冷たく、触れた手のひらの温度がひどく暖かいものに感じられた。

「貴女には、私を追い出す権利があります」
「……!」
「私に、ここに居座り続ける権利はありません」
「そんな……こと……」
「もう、良いのです」

手のひらが離れる。再び冷たい空気が頬を包んだ。私は手のひらが離れると同時に、反射的に彼の服の袖を掴む。掴んだ箇所には濃く深く皺が刻まれた。見上げた先にある瞳が僅かに丸くなる。

「行かないで……ください」
「……」
「私は、今≠ェ好きです。無くなると思うと、不安に、なる」
「……」
「貴方に帰る場所があるなら、私はそれを止める権利なんか、ありません。でも……」
「……」
「でも、やっぱり、行かないでほしいんです」

――独りは慣れていたとしても、やはり寂しい。
彼が消えても、日常にはすぐ順応できるだろう。しかし頭で理解していることに限って、感情は相反する。何事もなかったように過ごすことはできる。繰り返し繰り返し訪れる日々はあまりに抑揚に欠けていて、時計の針と全く同じように回り続けるからだ。
形はすぐに得られる。だが、中身は失えば失ったままだ。感情がそれに対して鈍ることはない。
慣れることと、感情が鈍っていくことは違う。

「だから……」
「……わかりました」
「!」
「わかったから、そんな顔をするのは止めなさい」
「!」

苦笑を浮かべた彼が、身を屈めて再び私に手を伸ばす。白い指先が瞼を撫で、縁に浮かんだ憂いを拭った。
その手のひらにしがみつくように指を這わせる。そして体幹へと身を寄せた。衣服越しに体温がじわりと伝わり、鼓動の音が鼓膜に触れる。……バケモノなどではない。それは間違いなく人の音だ。

「仕様がない人ですね」
「……」

幼子をあやすように、トントンと背中が柔らかく叩かれる。ゆったりとした微睡みが、意識の奥から波打ってくる。目を閉じれば、泣きたくなるほどの安堵感が意識を呑み込んだ。








20110211




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