『これが母さんの音よ、忘れないでね』

そっと呟き、私の耳を塞いだ母の顔は今でも思い出すことができる。目元に深く刻まれた影も、やせ細った腕も、それでも彼女は最期まで私の母だった。
幼い頃、外に出るたびに繋いだ白魚のような手も、そのぬくもりも、人形のような横顔も、濡れたように深く慈愛に満ちた眼差しも、どれも鮮明に思い出すことができる。
母は、たくさんの『音』に苛まれ、衰弱して眠りについた。母は最期にその『音』を私に伝えた。
思えば彼女の手はいつも彼女自身の耳を塞いでいた。聞こえても聞こえなくても、無音も騒音も忌避していた。
そんな母は、今の際に娘の耳を塞いで音を伝えた。
母の冷たい手のひらの感覚が、今も頬や耳に残っている。
しかし自身の手のひらを耳にあてがっても、周りの音がくぐもるだけだ。

――どうしても、思い出すことができない。

母さんの音は、どんな音だっただろうか。




「調子はどうだ」
「まあ、なんとか」
「雨音は障るのか」

面倒な体だな、とたいして興味も無さそうに彼は言った。通された部屋は楼閣の上階の部屋だ。雨風にあたっていたせいか、服が少し湿っている。寒気に身を一瞬震わせながら、促された椅子の上に腰を下ろした。何もない部屋だ。ベッドとテーブルと椅子と、適当な薬品が入っていそうな棚くらいか。どうやって生活しているのかとも考えてしまうが、別に一箇所に留まっている様子もない。荷物は少ない方が良いのだろう。
薄暗く色彩に乏しい空間は、寂れた冷たさに満ちている。肌に張り付く冷えた空気に寒気がした。彼の音を聞いてしまわないよう、外で響く雨音に、一瞬だけ意識を向けた。手が冷たい。

仮面の奥の瞳が暗く揺れ、こちらを見据える。

「……3日後の夜、仕事を与える」
「え、仕事?」

私は忍でもなければ、武道を嗜んでいたわけでもない。ましてや音を拾うにしても、そこに私の意図は全く関与しない。ただ聞こえるだけなのだ。出来そうな仕事など思い付かない。

「仕事って言っても、私、何もできませんよ」
「お前の『耳』がどの程度が見るだけだ。オレの言う通りに動けばいい」
「……」
「そう案じなくとも、殺しの任務ではない。お前の仕事はその前後の音を聞くことだ」

え、と戸惑いを込めて声を出す。それは暗に、人が殺されようとする場所に向かうと告げていた。不安がぼこりと芽を出し膨れ上がった。しかし彼はそんなこちらの気持ちなどお構い無しに、淡々と場所の説明を始める。
――人が死んだ現場に赴くなど、正気の沙汰じゃない。
死者絡みの場所や人間は嫌いだ。たくさんの音が混ざり、濁り、どろついた音が蔓延っている。残された人、残していった人、痛み、悲しみ、後悔、寂寥、懺悔、怒り、憎悪。殺伐と攪拌した感情の中に投下されるのは、正直辛い。久瀬が忍国の葬儀を請け負った際も、ひどいものを聞いた。……確か、第三次忍界大戦の時だったか。戦争で亡くなった人の葬儀を久瀬で行った際、訪れた人々から漏れ聞こえた夥しい量の悲鳴や断末魔、絶叫は長く根を張り、記憶の中に執拗にこびりついている。

「修行の一環だ」
「血腥い場所は、正直……」
「甘えるな」
「……」
「こちらはお前の家に対して大きな対価を払った。お前にはそれに見合うだけのものを払ってもらわなければならない」
「当主様は」
「本来対として2人いるはずの巫女守りの娘はお前しかしない。こちらとて妥協の末の決断だ。お前に拒否権はない。従え」
「……わかりました」

高圧的にこちらの意志を踏みにじられてしまっては、さすがに絶句して何も言えない。ここにきてそれなりの我慢はしてきたつもりだか、こう言われてしまうと我慢も単なる負担としてのしかかってくる。ずしりと思考にかかる愁いに唇を軽く噛み、出かかった吐息を飲み込んだ。『まけてくやしい』のはあながち間違っていないようだ。

「温室育ちのお前には辛いだろうがな」

思ってもないことをよくも言う。ほんの僅かに彼に意識を向ければ、溢れ出すように音が零れだした。雑踏のようにざらついた音の中から一際目立つ単語に意識を向ける。
敢えて彼の音を聞いてやろうとしたのは、ほんの反抗心のつもりだった。
――トビ。マダラ。名前だ。もうひとつ、何か聞こえる。それが本名だろうか。頭の中に文字として言葉が浮かび上がる。『うちは――?』

「オレの音を聞く気か?」
「!」

無意識に手元に落としていた視線が、強引に持ち上げられる。無造作に掴まれた顎の骨が軋んだ。仮面の孔から覗く赤い瞳が、鋭さを宿して私の眼窩に突き刺さる。息を呑み、慌てて赤い瞳から目をそらした。――あの眼を見てはいけないと。そうかつて当主様から教わった。あれは悪い夢を見せる。震えそうになる自身を押さえ込み、唇を軽く噛んだ。

「調子に乗るなよ、小娘」

彼は低く言葉を発する。しかし音は私の意志に関係なく流れ込んでくる。
――少女の聲が聞こえた。
優しく彼女が紡ぐ音がある。繰り返し繰り返し、呼ばれては穏やかに答える聲があった。もしかしてこれが、彼の本当の名前なのだろうか。
頭蓋の内側で木霊する音に、目を見開いた。
どんなに捨てようと、隠そうと、一度音として紡がれてしまえば、それは決して消えることはない。名前とは個に刻み込まれた、まじないだ。
私は「私」であるしかないし、彼はやはり「彼」なのだ。何を捨てても、他の何かにはなれない。
初めて彼を見た日、私の耳には悲鳴と絶叫だけが聞こえていた。あの赤い瞳も、彼から聞こえる音も、私にとっては悪いモノだった。
そらした視線を戻し、目の前の紅い瞳を茫洋と眺めながら頭のなかで音をなぞる。

彼から聞こえる音に、なんだか泣きたくなってしまった。優しく響くその聲すら、彼は捨ててしまったのだろうか。
――彼はきっと、忘れてしまっただろう。そんな些細なことを覚えているほど、私が詰まらない人間なだけだろうか。

「覚えてますか」
「……何の話だ」
「いえ、やっぱり、なんでもないです」

彼は詰まらないものでも見るように、私から離れた。

母さんの音は、どんなものだっただろうか。



20121031
修正20121228




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