こんなところに来たって、死者になんか会えやしない。
早くお帰り。
お前たちの父上が心配している。
此処には近付くなと教わらなかったの?
なら、覚えておきなさい。
此処へ近付いては駄目。
振り返らずに帰りなさい。
帰る途中、もしかしたら死んだお前たちの兄様たちの声が聞こえるかもしれない。
でも振り替えってはいけないよ。
それは山に住む魑魅魍魎らの悪戯だ。
声に応えてしまうと、彼岸に連れていかれてしまう。
だから、振り返らずに帰りなさい。
お前たちの家を、家族を目指して帰りなさい。
二人一緒なら大丈夫でしょう。
そして二度と、此処に来てはいけないよ。

――白い着物の女の言葉に従い、オレは弟を連れて山を下りた。
道中では、何故か何もない雪景色の中から様々な声が聞こえてきた。男の声、女の声、赤子の声、嗄れ声。人の気配はない。声だけが響いている。弟がそれを怖がり泣き出した。そんな弟をおぶってやり、オレは雪の中をひたすら走った。

そうして漸く集落にたどり着いた時、父にひどく叱られたのだ。同時に心配させていたのだと今さらながら思う。あの山には迂闊に近付くと神隠しに遭うという言い伝えがあったらしい。こんな戦乱の世だ。山に向かう途中に戦に巻き込まれて死んだ者が多かった為にできた迷信だったのだろう。無事に帰宅したことを喜ばれ、また、家に帰れたことで弟が再び安心して泣き出した。
そんなオレたちの頭を撫でる父に、泣き止んだ弟はふとしたように口を開いたのだ。

「じゃあ山にいた女の人は何だったのかな」

おそらく例の屋敷の人間ではないのだろうか。予想はついた。父は僅かに顔を強張らせ、そして呻くように答えた。

「比佐宜(ヒサギ)に会ったのか……」
「ヒサギ?」
「……鵺に喰われた娘だよ」

父は困ったように目を細めて口にした。
父はその比佐宜という女と知り合いだったのか。
父亡き後では知る由もない。
そう思っていた。
しかし彼女とは後に再会することとなった。
それが久瀬の巫女である。
知ったのは、オレがうちはの頭領になる少し前の話だ。




「こんな夜中に何うろうろしてんだ」
「!」

鳥居を潜ろうとした足がピタリと静止した。
背後で足音がゆっくりと動く。
……音自体は少し前から聞こえていた。トビさんのように神出鬼没な現れ方をされたわけではないので、そこまでは驚かなかった。
ただ聞き覚えのあるはずの音であるのに、奇妙な違和感があった。
振り返った先にある朱色に首を傾げる。
陋屋の側の大樹の根本に腰を下ろした影がこちらを見ていた。
――初めて見る顔だ。
軽く癖のついた柔らかそうな髪に、琥珀色の虹彩に囲まれた瞳、そのどちらもここでは見たことはない。硝子玉を嵌め込んだようなその瞳と白い肌は、どことなく人形を思わせた。年も私より下に見える。15、6歳くらいの少年だ。
しかし音に聞き覚えがあるのだから、何度か顔を合わせているはずである。
ついまじまじと少年の音を探るように耳をすませた。

確かに聞いたことがある音なのだ。
だが、誰から聞いた音だったか。
ふとしたように思案する。
父と母の行方を尋ねる声。
父と母の帰りを待つ声。
何か、硬質な物が擦れ合う作業の音。
老婆の声。
絡繰の音。
悲鳴。
三代目風影という単語。
ヒルコという単語。
少年の声。
地を這うような低い声。
記憶の中にある音と、少年から聞こえる音が噛み合った。
これは――。

「サソリさん、ですか?」
「……」

おそるおそる尋ねた私に、彼はひどく呆れたように吐息をついた。それが肯定的なものなのか、否定的なものなのか、どちらであるのかは判断しにくい反応だった。
少年は緩慢な動作で立ち上がりこちらに数歩だけ近付く。月明かりに照らし出されたその相貌は、透けるように白く、およそ生気というものが感じられなかった。
夜の冷たい空気が肌にべたべたと張り付き、熱を掠め取っていく。
問を口にした私に、彼は眉をひそめた。

「質問してるのはオレだ」
「あ、す、すみません。えっと、なんだか目が冴えてしまって、寝付けなくて。それで、ちょっと外の空気を吸いに」
「……」
「サソリさんも眠れないんですか?」

おそらくサソリさんで間違いないだろう。
少しずつ聞こえてきた音と、聞いたことがある音が一致し始めている。確かめるように再度名前を口にすると、彼の瞳からは私への関心が完全に失せたように見えた。
もともとそれほど関わりはなかった。
だから具体的にどんな人間なのかは把握していない。もしかしたら、何か気に触ることでもしてしまっただろうか。
沈黙して訝しげに向けられる視線に、耐えきれず適当な話題を持ち出してはみる。しかし寡黙な人柄なのか答えは全て沈黙で返されてしまった。
それについに当たり障りのない話題も尽き、一方的に気まずさを感じて俯く。すると意外にもサソリさんから言葉が投げかけられた。

「よく喋る女だな」
「……すみません」
「別に眠れない訳じゃない」
「え?」
「眠る必要がないだけだ」

それは、どういう意味なのか。
単純に任務がないだとか、既に充分に休息を取っただとか、そういう意味なのだろうか。
特に深く考えず、「そうですか」などと生返事を返す。
……しかし、何故だろう。
サソリさんが動くたびに、硬質なものが擦れ合うような、奇妙な物音が響く。
昔、幼いころ、何度か聞いたことがある音だ。
聞き慣れた、というほどのものではない。
果たして何だったか。
1人でくるくると思索を巡らせていると、サソリさんは抑揚に欠けた声で息を吐いた。

「阿呆面……」
「え」
「お前みたいな非力な小娘の力まで欲するとは、組織も切羽詰ってるな」
「すみません。私がいつまで経っても使えないから、迷惑ばかりかけてしまって」
「……お前、ゼツの部下だったな」
「はい」
「なら、お前をここに連れてきたのはゼツか」
「!」

詰まらなそうに言葉が紡がれる。
問とも独り言ともつかない言葉に、どきりとした。
私をここに連れてきたのは。
――違う。
ゼツさんでは、ない。
実際にはトビさんにここに連れられ、その後ゼツさんへと回されたのだ。

『此処ではゼツの部下として、何も語らず、知らないふりをし、そしてただ己の責任を全うしろ』
『オレは此処では存在しないものだと思え』
『お前に期待されているものは、たかが知れているのだと自覚しろ』

それを了承したのも、受け入れてこの場所を選んだのも、私だ。
今更後悔や未練があるわけではない。
しかし、どうにもここに来てからの数か月で多くのことがあり過ぎた。
それに伴うだけの成長が自身に見られればいいが、日増しに現実に怖気づいていく自分がいる。
先への不安が日が経つにつれ嵩が増していく。
――音が、少しずつ閉じていく。

「ゼツじゃねえのか」

その声に、我に返る。
いつの間にか足元に落としていた視線を持ち上げる。
サソリさんが首を傾げてこちらを見ていた。
妙に幼く映るその表情と、彼が首を傾げた時にカチカチと響いた無機質な音に、何故かうすら寒くなった。
首を振り、慌てて取り繕うように言葉を紡ぐ。
……呆れたことに、我ながら不自然な反応だったとは思う。

「ゼツさん、です。ゼツさん、ここに来てから、ずっとお世話になってて」
「……」
「ダメですね。ほんとに、ちゃんと、早く役に立てるようにならないと」
「へえ。役立たず、ね。久瀬は得体が知れない。オレには、女共が集まって何を企んでいるなんざ、もっとわからねえがな」
「そんな、別に、私なんかただの巫女守りで。全然、企むとかそういうのは」
「神事にかかわる女ほど、人間から離れるってな。聞いたことあるぜ。久瀬の女は恨むと化けるってな。姑獲鳥、鵺、陰摩羅鬼、以津真天、火車、魍魎。お前は、何に化けるんだろうな」
「!」
「もっとも、今のお前は組織のお荷物か」
「そ……そう、ですね」

荷物。
確かにそれが一番しっくりくる形容かもしれない。
いつまでも耳を使いこなせない。
それどころか、音が閉じてきているかもしれない。
役になんて、立てないかもしれない。
分からなくなる。
忘れてしまう。
消えてしまう。
何もなくなる。
全てなくなる。
屋敷を囲う雪のように、白に還る。
それは、遠くない未来の話だ。
――私は、此処で荷物のまま終わるのだろうか。
重い荷物ならいっそのこと手放してしまった方が楽になる。
彼はきっと、そこにずっと留まるわけにはいかないのだ。
己の目的のために突き進まなければならないのだ。
ならば、その道のりまでの荷物は少ない方がいい。

今の私ほど、邪魔なものはないのだ。
失望されても、見限られても、見捨てられることがあっても、仕方がない。

『見捨てないで』

置いて行かないで。
私は好きで生き残ったんじゃない。
生きたかったわけじゃない。
見捨てないで。
見限らないで。

また、私だけ生き残ってしまう。


『もう遅いよ』
『海鳴りが聞こえる』
『「鵺」が来る』
『逃げなさい』
『どうか、私をもう一度殺してほしい』
『姑獲鳥になってしまわぬよう』
『逃げればよかったのに』
『こみち鳥、われかきもとに、なきつなり、ひとまでききつ、ゆくたまもあらじ』

走馬灯のように、久瀬の宮にいたころの声が思い出される。
どくりと心臓が大きく打つ。
眩暈がした。
唇を噛み締め、目の前の少年を見る。
琥珀色の虹彩が、夜の冷たさを取り込んで透き通った。

「オレには、興味もないことだな」

彼は詰まらなそうに踵を返した。
背中が向けられる。
頭の内側で音ががんがんと鳴っている。
心臓が不自然に鳴り続けている。
サソリさんの音が遠ざかり、陋屋に完全に消えていく。
それを合図にずるずるとその場に座り込んだ。
耳を塞ぐ。
音がくぐもる。

東の空が、白んできた。


20130402




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