無音が世界を支配した。
聞こえていた音が一気に遠ざかる。
自身の鼓動の音も、衣擦れの音も、何もかもが消える。
畳を引っ掻く。
床の間を叩く。
声を出す。

――しかし何も、聞こえない。




隣の部屋だ。
悲鳴が聞こえたのは、眠りに入ってすぐだった。
それが千草のものであると理解するのに時間もかからなかった。
本来ならもっと焦っても良いはずだ。しかしこの旅籠に着いた時から様子がおかしかった彼女を思うと、非情にも納得している自分がいた。
布団を適当に除け、寝間着のまま隣の部屋に向かう。
夜の冷え切った空気に、肌が軋む。冬でもないのに、何故か異常に廊下は冷えていた。首を擡げた不安が、どくりと脈打った。

鬼灯の間・萼。

襖を開ける。
途端に鋭い悲鳴が鼓膜を劈いた。
部屋の片隅にある布団がぐしゃぐしゃになって雑に散らばっている。
寝間着を乱し、髪を乱し、耳を塞いだ彼女が其処にいた。
青褪めた顔で目を真っ赤にし、狂ったように奇声を発しながら彼女は畳を這っていた。
虚ろにも見えるその目玉は、怯えたように瞳孔を広げた。

「千草さん」
「!」

ビクリとその肩が震えた。
彼女は耳を塞いでいた手をゆっくりと離した。
そして確認するように「イタチくん」と呆けた声で紡ぐ。
ぼろぼろと、2粒ほどの涙がその白い頬を滑った。

「どうしたんですか」
「あ……れ、あ、うん……なんでも、ない」
「千草さん」
「ごめん、気のせい、気のせいなの、きっと」

まるで自分に言い聞かせるようなその言葉に眉をひそめる。目を袖口で拭いながら、彼女はくぐもった声で言った。障子の隙間からは青白い月明かりが射し込んでいる。この部屋は、些か広すぎる。
彼女の傍らに寄り身を屈め、その薄い背中を摩った。冷たい畳の感触が足の裏から体温を奪っていく。これでは身体が冷えてしまうだろう。慣れない藺草の匂いが鼻孔を満たす。
彼女が落ち着いたのを見計らい、問いかけた。

「怖い夢でも見たんですか」
「……」

ゆっくりと彼女は首を左右に振った。

「なんでも、ない。ほんとに、気のせいだから。大丈夫」

ぎこちなく笑いながら、彼女はゆっくりと紡いだ。
大丈夫だったならば、あれほど取り乱しはしないだろうに。
――相手がマダラだったら、彼女は素直に言ったのだろうか。ふと、そんな考えがよぎる。
同じくらい、彼がここを選択した理由にも薄々勘付く。

「イタチくん」
「何ですか」
「此処に来てから、イタチくんは子どもとか赤ちゃんの声、聞いた?」

彼女の言葉に、少しずつ予感が確信に変わっていく。
ここはおそらく、ただの旅籠ではない。
そう思った刹那に、不意に声がかかった。

「夜中に騒いでどうしたんだい」

部屋の戸が開けっ放しだったことを忘れていた。
その向こう側には、女将が立っていた。




「悲鳴が聞こえたから、下手人でも入ったのかと思ったよ」

差し出された白湯を受け取りながら、私は再度謝罪を口にした。
――今は、音はごく自然に聞こえている。
此処に入った途端に鳴り出した子どもや赤子の声も、響き続いている。
白湯を口に含みながら、胸中にしこりのように居座る不安感を飲み下した。

あまりの取り乱しように、イタチくんだけでなく女将さんも起こしてしまったらしい。情けなさと醜態を晒したことによる羞恥でひどい罪悪感に襲われる。
女将さんに至っては気を使って白湯まで用意してくれた。
広すぎる座敷で、私を含めて3人で卓袱台を囲んだ。行灯の赤い灯りがぼんやりと手元を照らした。

「癲癇でも患っているのかい」
「いえ。……本当にすみません」
「まあ、何もなかったんならいいけどね。落ち着いたら早く寝な」

大きく息を吐き出した女将さんは、私からイタチくんに視線を変えて「子どもの夜更かしは感心しないね」と付け足した。イタチくんはそれが不意打ちだったらしく、湯呑を持つ指先を震わせた。ついで僅かに眉をひそめる。子供扱いはあまり好きではないようだ。
それについ「この宿には夜更かしが好きな子どもが多いですね」と口を突いた。
女将さんは私の言葉に一瞬だけ身を強張らせた。そして顔を歪めながら呻くように言葉を紡ぐ。

「今日の客に子連れはいないよ」
「でも、ここに来てからずっと。赤ちゃんとか、小さな子の声が」

そこまで言うと、女将さんの顔は少しずつ険しいものになっていった。イタチくんは、それにかぶせるように口を開いた。

「此処は、宿になる前は何だったんですか」
「……さあ、私が娘の頃からあったからね」

赤子の鳴き声が、一層大きく響いた。
何かを訴えるような音に、頭の内側を殴られるような衝撃が走る。それに小さく呻く。

「あんたら、何者だい」
「……」
「特にお嬢ちゃん、あまりでたらめを言うものじゃない」
「私は、聞こえるだけです」

聞こえるだけだ。
赤子の声も。子どもの声も。
聞きたくて聞いてるわけではない。
女将さんが何かに気付いたのか、目が少しずつ大きく見開いていく。月明かりを取り込もうと広がる瞳孔に、暗い色が揺れた。

「あんた、まさか真赭様の」
「!」
「似てると思っていたが、そうか、なら、今はもう安定してきたんだ。あまり干渉されたくはないね」
「当主様を知っているんですか」

私の言葉に、女将さんは顔を歪めた。そして一度辺りを見回し、深く息を吐いた。
その視線はイタチくんに向けられる。

「子どもには早い話だよ」
「忍として、それなりに『大人』としての汚い仕事もしてきた」
「ませたガキだね」

いいよ。教えてあげよう。
鬱蒼と目を細めた老婆の眼光が冷たくこちらに向けられた。

「ここは、昔久瀬家に供養してもらったんだ」
「供養?」
「ここは、旅籠になる前は女郎屋でね」

女郎屋。
その言葉に、ついイタチくんへと視線を向けた。
確かに、まだ13歳の少年に対して取り上げる話題ではない。お節介とはわかりながらも、部屋に戻っても大丈夫だとそっと耳打ちする。しかし彼はそんな私を黙殺し、女将さんに視線を戻した。
女将さんはそんな私たちの様子に可笑しそうに笑いながら、話を続けた。

「赤子の声が聞こえるんだろう。それもそうさね。女郎が赤子を抱えて客の相手ができるわけがない。借金のかたに売られた女郎に、子どもが育てられるかい?」

答えは聞くまでもないだろう。産んだとして、養うすべを女郎は持たない。生まれた子に、居場所はないのだ。

「身籠っているのがわかれば、堕胎させた。たくさんの嬰児を殺した。中には産みたいと泣き叫ぶ娘もいたさ。でも、仕方がなかったんだよ」

女将さんはそっと枯れ木のような指先で部屋の片隅を指さす。そこには鬼灯の絵が描かれた掛け軸がぶら下がっていた。

「知っているかい? 鬼灯には子宮の緊縮作用がある。その根からとれる毒を飲ませて流産させることもあった。腹を殴って死産させたこともあった。冷水に浸からせることもあったかな」

ざわりと鳥肌が立つ。自分のことでもないのに、何故か腹部が痛んだ。得体の知れない恐怖が背骨に絡みつく。女将さんはまるで懐かしむように言葉を続けた。

「私自身の子も、妹分たちの子も、仲間の子も、みんな殺した。罪悪感がないわけではなかった。でもね、子どもを抱えていたら、私たちは明日を生きられなかったんだよ。私たちは、生きたかったんだ」

――生きたかった。
それすら、当時の女性には許されなかった。
生きるためには大きな代償が必要だった。

「でも知っていたよ。私たちが生きたいと思うのと同じくらい、赤ん坊たちも、生まれたかったんだ。こんな世界で生きたって碌なことになりゃしないのに。子らは私らを『母』に選んでくれた。途端に怖くなったさ。産んでやれなかった子らに恨まれてる。憎まれてる。そう思わざるを得なかった。馬鹿げてるだろ。神様なんか信じちゃいない。でも、怖くてたまらなかったんだよ。私だけじゃない。信心深い女郎は皆怯えていた。そんな時に、久瀬家の話を聞いた。藁にも縋る思いだった」

どうか供養してほしい。
来世こそは産んでやれるから。
今の「私」じゃ産んでやれないが、きっと別の時代に新しく生まれたら、お前の「おっかあ」に成れるから。
それまでは安らかに眠れるように。
子守唄を。

「真赭様は、言ってくださった」

『貴女たちの痛みも、生まれることが叶わなかった子らの痛みも、私が引き受けよう』
『この女郎屋にいる子らは、久瀬の宮に招こう』
『次に生まれる日まで、久瀬の屋敷で子守唄を歌い、安らかに眠るといい』
『それまでは、私が子らの「おっかあ」だよ』

「あの方に、私たちは救われたんだ」

その後、久瀬真赭によって丁重にこの屋敷は供養された。
時代が過ぎ、屋敷は適当に改築され、女郎屋時代の面影も多少残しながらも旅籠となった。

「生まれられなかった子らは皆久瀬で眠っている。私たちの痛みは柊としてあの方が引き取った。そして痛みを、子らを、巫女が蓋をして鎮めている。その上行く宛のない女郎の何人かを、久瀬は引き取ってくださったんだ。今もたまに文が届くよ。元気そうだ」

女将さんはおかしそうに笑う。
確かに、久瀬には外から来たという女性が何人かいた。彼女たちは皆当主の側近だった。巫女守りである私たちとはどこか距離を置いていた節もある。それが、ここに繋がるのだろうか。

「お前さんは、久瀬の人間と言ったね」
「!」
「お前さんには、あるのかい」
「え……」
「他人の痛みを引き取り、背負うだけの覚悟はあるのかい?」

こちらを真っ直ぐに見据える瞳に、私は動揺した。
そんなこと、考えたこともなかった。
私は己の身に刻まれた柊を呪うことはあっても、そこにさらに他人の痛みを上乗せするなど考えたこともなかった。
私の役割は、巫女様を見守るだけ。
それだけだと思ってた。
巫女様を恨むことはあっても、巫女様自身のお役目など知らない。
私は何も知らない。
無知で愚かな子どもだ。

「ただ、ぼんやりと生きてきただけかい?」

そうしてぼんやりと死んでいくのかい?
誰かを愛することも、失うことも、悲しむことも、深い幸せを感じることも知らず、平坦に生かされ、空っぽのまま「躯」として死んでいくのかい。

得体の知れない焦燥と不安が、どくりと脈打った。



20130124




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