らしくもなく感傷的になったのは、その虹彩の色を覚えていたからだろう。
こちらを映した目玉が、まるで透けるように透明に見開く。冷たく澄んだ空気に、硝子玉のように眼球の血管が透けた。
――その目玉を抉り出したとして。彼の傀儡子でもない自分では、はめるべき対象を作りえない。
――その目玉を散らしたとして。美などに価値の重きを置かぬ自分には、得られぬものに満足などできない。
――その目玉を手に入れたとして。おそらく、自分に語れるのは絵空事の世界だろう。
死んだように眠る頬に触れた。指先に伝わる小さな熱に、ついぞこみ上げる感情がある。しかしそれに蓋をする。溢れ出そうとする過去の自分を、押し殺す。

「頼むから」

どうかオレを忘れてくれ。
懇願するように、息を吐く。彼女が苦しげに呻いた。悪い夢でも見ているのだろう。刺青のことを聞いた際、巫女から虐げられた過去があると聞いた。
――あのころ、未だ世界は綺麗だった。
たとえ苦痛に塗り固められようと、希望は諦めではなく、未来への覚悟として胸にあった。今はそれすら、皆無だ。

こんな世界では、生きてはいけないと。そっと許しを請うように目を瞑る。もう一度触れたいと願った『彼女』の亡骸は、血の海の棺の中に沈んでいった。『彼女』と一緒に、『オレ』も死んだのだ。しかしこんな現実に、もはや意味はない。
閉じた先に見られる「夢の世界」は、こんなにも美しいのだから。




「千草ハイタチト向カワセタノカ」
「僕たちが連れて行っても良かったのに」

瞬きでもするように背後に現れた気配に、手を止める。壁が盛り上がり、見慣れた外殻が口を開いた。そっと顔を覗かせる淡い緑の髪が、暗がりにくすんで見えた。

「あれは他人に甘いからな。ほかのメンバーに任せれば殺されかねん」
「一応殺されたら困るのね」
「躯モ虚モ、ソウ簡単ニ生マレナイ。ソレニ、久瀬デハ千草ガ一番若イ。千草ヲ最後ニ子ドモハ生マレテイナイ」
「久瀬自体、当主の意向で、今の代が最後になるそうだからな」
「尾獣の情報もまだ揃ってないのに、今死なれたら情報収集に大きな時間をかける羽目になるからね」

くすりと嗤った鶸色の瞳に眉を顰め、ベッドの上に投げ出された仮面を手に取る。首筋を滑る自身の黒髪を鬱陶しげに払う。無造作に伸ばされた髪が、背中に重くのしかかる。つけるわけでもなく仮面を眺めながら、浅く息を吐き出した。

「実践で使うには、まだ早い」
「小南ハソレニ関シテ大分渋ッテイタナ」
「忍としての実力には期待していない。必要な情報が揃えば、あとは好きにさせろ」
「でも、あまり悠長にはしてられないんでしょ。久瀬の音拾いは、ランダムな時限爆弾が付いてるんだから」
「……」
「写輪眼もそうだけど、肉体に付加される能力ってのは不便だね。使うだけ使って開けば、あとは閉じるだけか」
「マダラモ等シクソウダッタ。所詮、寿命アル人間ノ能力ダ」

そっと右目の目蓋に触れる。それは抗いようのない事実だ。久瀬の女の末路など、あの老女から散々聞かされた。それを特別哀れには思わない。むしろ、至極当然のことだ。何の代償もなしに、人は『特別』など得られない。それ故に淘汰されようとするのは、世の条理に逆らったことへの報いだ。平和の代償に戦争で殺された人間が存在する。勝者が正しく、敗者が悪として、穢れとして、忌避されるものとして、世界から疎外される。全てのつけを請け負う。久瀬は自ら終止符を打つことで、残りの血縁者に中途半端な慰めを施しているだけだ。久瀬も、うちはも、形は違えど似たような末路を辿っているだけの話だろう。

「……懐柔サレルナヨ」
「つまらない冗談だな」
「ダガ、兆候ガ現レ始メテイルンダロウ」
「だったら千草も柱間の細胞を移植すれば長持ちするんじゃない?」
「あれが誰にでも等しく適合するとは限らん」
「長命のはずの一族の、『死』を懸念するなんてね。笑い話だね」
「ひとまず、久瀬に行き確認したいことがる。話はそれからだ」

……久瀬の宮へ行くと言った際、こちらの言葉が信じがたいらしく、彼女は静止して目を丸くしていた。屋敷から連れ出す時、もう二度と戻れないものと思えと言い聞かせて此処に連れてきた。組織に身を置く以上、たとえ本人の意志でなくとも、生半可な覚悟では困る。外を知らぬ閉鎖的な一族の典型的な例らしく、彼女の無知な側面にこちらの意図を書き込むのは容易かった。
――適当に甘やかせばいい。幼子を扱うように。庇護と監視の分別などどうせつきはしない。必要な時に、必要な分だけ使う。それ以外は監視下の元で泳がせておけばいい。あれが勝手に「此処」に愛着を持つことも、信頼を寄せることも好都合だ。
全ては順調だ。彼女も組織も、全ては大望を成し遂げる為の手段に過ぎない。
世界に淘汰されるだけの存在ならば、新しく夜明けを迎える月読のかいなに抱かれて眠ればいい。

この世界に、自分たちを祝福する場所などない。




「一度休憩しましょう」

前を歩く背中が不意に止まった。反射的に足を止める。雨隠れを抜け、その先にある森に入ってからどのくらい経ったのだろう。青々と茂った視界は、じっとりとした冷たい湿気に満ちている。頭上を鉛色の雲が覆っているが、傘は必要ないだろう。――この間、木の葉に向かう際に使っていた番傘はいつの間にかトビさんが拾っておいてくれたらしく、顔を合わせた時に私の手元に戻ってきた。この番傘自体は、ここにきてからゼツさんがくれたものだ。傘を閉じ、右手に持ち直しながらイタチ君の背中を見る。彼の黒い外套は雨風に触れ、重たげに湿り気を孕んでいた。

「風邪引いちゃうね」
「平気です」
「宿場町にはどのくらいで着きそう?」
「杜を抜ければすぐだったと思います」

分厚い雲は重苦しく空を覆い隠している。日の姿が見えないので時間も判断しづらい。出立したのは早朝だった。もう昼は過ぎているだろう。前を歩くイタチくんは、周りの木々と比べて一際枝葉を大きく広げている木陰の根本に腰を下ろした。その傍らに同じように腰を下ろす。あまり意識していなかったが、座り込んだ途端に足に痺れるような疲労が滲みだす。幸い履きなれている履物を身に着けているので、靴擦れはしていない。しかし存外疲労感は身体に溜まっていたらしく、思わず深く息を吐き出した。

「……大丈夫ですか」
「うん、平気、大丈夫だよ」
「千草さんは、何故あの男に従うんです」
「え?」

あの男とは、トビさんのことだろう。唐突なその問に、つい目を丸くする。幼さの残るその端正な横顔を眺めながら、あまり考えたことのなかった答えに思案した。
――始まりは、当主様の意向だった。彼は、当主様が彼自身が企てる計画の賛同者であると言っていた。ならば、屋敷に使える人間として拒絶する謂れはなかった。ただ、従えばいい。躯とは、そういう存在だ。

「私は、躯だから」
「……」
「役割を果たすだけだよ」
「逃げたいとは、思わないんですか」
「……」

『逃げる』。
そっと懐古する。
あの日、母の手を離し潜った鳥居の色は、褪めた朱色だった。
私は覚えている。
着ていた振袖の色も、母の声も、あの子の声も、繋いでくれた手の温度も。
屋敷に帰って、巫女様がひどく機嫌を損ねていたことも。
――あの子はきっと忘れてしまっただろう。
思い出すことも、きっとない。
それでもいい。
あの鳥居の下で、手を引いてくれた少年だった彼を私は覚えている。
あの暗い屋敷から、怖い巫女様から、助け出してくれる。
「彼」に逢える。
そんなつまらない希望を抱いていた。

「逃げ出した先が、ここだったのかも」

希望って、何だろう。
背中に感じる木の幹が、ひどく冷たい。



20130106




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