「醜いわ」

嗤いながらあの人は私の肌に爪を立てた。赤が滲む。疼痛が波紋する。

「痛い」
「やめて」
「ごめんなさい」

泣きながら私は畳に散らばった着物を肌にあてがう。
母が着せてくれた7つ参りの振袖は、あの人にぐしゃぐしゃに剥ぎ取られてしまった。ただ自身の幼い裸体を抱きしめ、啜り泣く。
細く丸い小さな肩にあの人が噛み付いた。痛みに呻いた私を嗤う。
嗤うだけ嗤って、私を抱きしめて宥める。

「お前が神社で会った少年も、きっとこれを見たら醜いと思うでしょう」

この世界に私たちを祝福する場所なんてない。
あの人は、巫女様は泣きながら言った。





「起きた?」

ふと、響いた声に目蓋を持ち上げる。聞き慣れない声だった。ただ、鼻孔をくすぐる匂いや、鼓膜を撫でる雨音が、妙な懐かしさを持って意識に介入する。視界を埋める見慣れてしまった天井の色に、なんとはなしに、自分が雨隠れに帰ってきていたことを認識した。同時に真新しい音が意識の隙間に流れ込む。傍らに佇む影に、視線を向けた。

「そういえば、初めましてだったわね。小南よ」

体を起こそうとすると、やんわりとベッドへと押し戻される。初めて見る女性の顔に、私はつい首を傾げた。
藤色の髪が、艶やかに流れる。綺麗な飴色の瞳が、優しく細められた。
黒地に赤い雲が刺繍された外套を見る限り、この組織の一員なのだろう。
既に会った組織の人の容姿が独特であるせいか、意外だと思ってしまう。
同時に、不意に思い出しそうになる血の匂いに、指先が震えた。

「酷いものを、見たそうね」
「!」
「いいのよ。いくらマダラが自らあなたに架した課題とはいえ、荒療治が過ぎた」
「トビさんは、なにか言ってましたか」
「……気にする必要はないのよ」
「……」

正直、今回のことを思い出しても、私が外に出た意味が見当たらない。ただ死体を見て気を失っただけだ。考えれば考えるほど、情けない話だ。ゆっくりと体を起こしながら、深く息を吐き出した。……そういえば、イタチくんはどうなったのだろう。トビさんと一緒にいるのだろうか。あの子は、自分の家族を。
――血の匂いが思い出され、反射的に手のひらを見た。血液なんて付着していない。しかし、どうにも汚れているように思えてならなかった。気持ち悪い。

「あの」
「何かしら」
「湯浴み、いいですか」

小南さんは一瞬だけ目を丸くした後に、優しい声音で「どうぞ」と笑んだ。




「久瀬千草の様子は」

彼女がシャワー室へ姿を消して1分も経たないうちに、来訪者がドアを開けた。擦れ違わなかったのだろうか。その意味も込めて「良好でないのは確かね」と、彼女が先ほどまで眠っていたベッドを見詰めながら返した。
どことなく、怯えた様子を孕んだ彼女の瞳が脳裏に浮かび上がる。
何も知らない、まだ少女と呼ばれる年の子供だ。
屋敷の中で、蝶よ花よとまではいかなくとも、愛され、綺麗なものを見、そして戦いを知らずに育ったのだ。あんなものを見て、ショックを受けないはずがない。
うちはイタチによる、一族惨殺。里内部では、ごく一部の人間にのみにしか伝えられていないらしく、あまり騒ぎにはなっていないようだった。
マダラは彼女に何を見せようとしたのか。
世界の酷さを説くくらいなら、見せる必要はなかったはずだ。
無知で柔らかいその心に刻むものは、抉るような傷でなくとも良かったはずだ。

「ペイン、あの子を本当に暁に入れるの」
「マダラの意向だ」
「あの子は戦えないわ」
「ああ」

表情に乏しい彼の顔が、かすかに曇ったように見えた。
自分たちが望む平和が、その模造品が、あの子が過ごしてきた世界なら。
それを奪い取ったところで、私たちが得るものなどない。彼女にただ絶望を与えるだけだろう。――それではまるで、玩具欲しさに駄々を捏ねる幼子のようだ。
自分たちが得られなかった幸福を、彼女から剥奪しただけのように感じられてしまう。

「だが」
「!」

ペインが重々しく口を開く。

「久瀬の当主は言っていた。この世界は勝者のための幸せしか用意されていないと」

負ければ、失うしかない。
ならば、私たちは負けるわけにはいかない。
進むしかない。
今更戻れはしないのだ。
「夢」のために、進むしかない。




凍えるような冷水が頭上から降り注ぐ。死に触れた後は、身を清めなければならない。久瀬では葬祭が行われるたび、繰り返し言われ続けてきたことだ。シャワーのノズルから勢いよく流れだす水を頭からかぶりながら、その冷たさに歯を食いしばる。がちがちと歯が鳴る。それが恐怖を思い出したからなのか、寒さによるものなのかは自分でも判別がつかなかった。あの夜のことは考えまいと、唇を噛みしめながら繰り返す。震える自分の体を、かばうように抱きしめ、ただ言い訳をする子供のように意味のない「仕方なかった」という言葉を繰り返した。体の震えが止まらない。嫌な夢ばかり見る。ここに来てからずっとそうだ。もしかしたら。もしかしたら。そんな期待を抱いては諦念に突き落とされる。どうすればいいのか、もうわからない。

「……」

冷え切った体の末端が麻痺してきたところで、蛇口をひねった。
水が完全に断たれたところで、浴室を後にした。

タオルで適当に水気をぬぐい、用意していた服に袖を通す。指先が思うように動かない。感覚のない四肢の末端に小さな苛立ちを覚えながら、廊下に出た時だった。

「ひどい顔ですね」
「!」

肩が跳ねる。振り返った先にある赤い瞳に、無意識に身が強張った。

「イタチ、くん」
「風邪を引きますよ」
「ありがとう、大丈夫」

濡れたままの私の髪に、彼は眉をひそめた。それに苦笑で返しながら、私は2歩だけイタチくんに近付く。詰めた距離の分はっきりした彼の顔色に、今度は私が眉をひそめた。
目元に濃く深く居座る隈と、血の気のない青白い顔。明らかに窶れたとわかる。

「寝てないの?」
「……」

視線がそらされる。彼の赤い瞳が、黒く染まった。

「イタチくん」
「音拾いなら、音をかき消す方法を知ってるんですか」
「!」
「殺した人の悲鳴が、消えない」

彼は自身の耳を塞ぎながら、呻くように言った。壁を背に、ずるずるとその場に座り込む。細く小さな肩が震えていた。思い出したように、遠くから雨音が響いてくる。それに混ざり合うように、彼から雑踏が零れだした。
――悲鳴、叫び声、断末魔、呪詛を交えた言葉。
しかしそれ以上に、一際目立つ彼自身の謝罪の言葉。
――父さん、母さん。
――ごめんなさい。
――ごめんなさい。
――『お前を誇りに思う』。
――『本当に、優しい子だ』。

そっと彼と向かい合うようにしゃがみこむ。そして両手を彼の耳にあてがった。
……冷え切った私の指先に、彼はビクリと跳ねた。暗い瞳がこちらを見上げ、「何ですか」と低く言葉が吐き出された。

「音は、記憶にへばり付くものだから」
「……」
「こうやってね、教えてもらった音があるの。忘れないでって。でも、私は忘れて、しまったのかも」
「?」
「母さんの音」

彼の耳から手を離し、自身の耳を塞ぐ。母が私に伝えたかった音。しかし、耳を塞いだところで外界の音が遮断されるだけだ。聞こえるものはない。無音の中では、記憶に住み着いた音が騒ぎ出すだけだ。彼は私の手を払い、私がしたように、その両手を私の耳にあてがった。ぐっと力が籠められ、雨音が消える。

「塞いでも、何も聞こえなくなるわけじゃない」
「!」
「音は遮断されるかもしれない。貴女は、聞こえ過ぎてるから」
「……」
「耳なんか澄まさなくたって聞こえる」

音が切れた暗闇のような無音だ。ざらついた雑踏が思考で蜷局を巻いた。自分より低い位置にある、彼の黒い目を見る。何が聞こえるっていうんだ。思いながら、息を吐く。手のひらが温かい。「聞こうとするな」と、彼は唇だけで紡いだ。

「聞こえる」
『聞こえる……』

彼の声に、母の声が、重なった。
そっと、耳を塞ぐその手に自分の手を重ねる。
聞こうとするあまり、聞こえる音を忘れていた。
母は、あの時そう言っていた。
無音でありながら、決して音がないわけではなかった。
私たちには、決して忘れない音が一つだけある。
手のひらから伝わる、温度を孕んだ音に目を伏せた。

「腕の筋が動く音です」
「!」
「大したことじゃない」

イタチくんは私から手を離した。私はもう一度、自身の耳を両手で塞ぐ。
地鳴りのような、胎音のような音。生まれる前に、きっと聞いていた。羊水の海の中で、深い眠りに就きながら、確かに聞いていた。

『これが、母さんの音だよ』

生きている音だ。
私が生きている音。
母さんが伝えたかった音。

『忘れないで』

生きていると。

「生きてる音だ」
「貴女にも気づけない音があるんですね」
「……うん」

ゆっくりと立ち上がる。彼もまた体を引きずるように立ち上がった。一瞬だけふらついたその体を支えるように手を伸ばす。掴んだ肩がゾッとするほど細かった。ついぞ躊躇うように震えた指先に、彼は私の腕を押し返した。大丈夫ですと、付け足した声に、その黒髪を梳くように彼の頭を撫でた。どこか鬱陶しそうにこちらを睨む目が、年相応でつい笑みがこぼれる。反面、この子から響く音に、言いようのないやるせなさが絡みついた。せめて報われて欲しいと、思う。

「ありがとう」
「何の話ですか」
「うん。良い子」

彼は眉をひそめた。
それに苦笑しながら、呟いた。
――かってうれしいはないちもんめ。
歌が遠くから響いていた。



20121124
修正20121228




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