猫が襖を開け閉めするようになると、その猫は既に常世を住処にしているのかもしれない。そんなことを、聞いたことがある。





赤い虹彩が月明かりに鋭利に輝く。しなやかな女郎花色の体躯を伸ばし、ペルシアンが欠伸をした。その滑らかな毛並みは月明かりに銀色に染まり、いっそう怪しく存在を誇示する。首を撫でると、気持ちよさそうに喉を鳴らした。

『そのペルシアンは、襖を開け閉めするのかい?』

マツバさんの言葉が頭の中で再生される。猫が襖を開け閉めすると、それは化け猫になる前兆、あるいはすでになっている。そういう噂を聞いたことがある。しかしこんなにも祖母から愛情を注がれ、大切にされてきたペルシアンが化けるだろうか。何よりもそれは伝承というか、御伽噺のような民話だ。どうにも私には信じがたい。それに何故そんなことを唐突に言ったのだろう。

「!」

ペルシアンが体を起こし、僅かに開いた襖へと向かう。やや強引に隙間に顔を通し、体を通すだけのスペースを器用に作り、そして襖の向こう側に姿を消した。開いた襖はそのままだ。やはり、考え過ぎなのだろう。ゆっくりと立ち上がり、その開いた襖を閉める。そして寝るべく布団に身を倒せば、スウッと襖の開く音がした。

「……お母さん?」

横になった体を起こし、問いかける。しかし返事はない。代わりに猫の鳴き声のようなものが、襖の向こう側から聞こえた気がした。心臓がドクリと大きくなる。血液と一緒に、恐怖が全身に送り出された。たまらず布団に潜ると、今度は開いた襖が閉まる音が鼓膜を突く。目を瞑り、ひたすら身を堅くした。恐怖に呑まれる思考を、理性で繋ぎとめる。

……明日、ジムに行けばマツバさんに会えるだろうか。





「あれ、こんにちは、えっと……ツユキさん」
「こ、こんにちは」

翌朝、いつもは通り過ぎるだけのジムの前で立ち止まる。すると運が良いのか、偶然マツバさんがジムの中から出てきた。傍らには夜色の体躯と赤い瞳を持つポケモンがいる。ゲンガー、だろうか。大きな目をしぱしぱと瞬かせ、ゲンガーは私を見た。愛嬌のあるその表情に、つい目を丸くした。同時にふわりとゲンガーの体が浮く。そして私の周りを旋回して、珍しいものでも見るように凝視した。

「あ、あの……」
「ゲンガー、そんなに見たらツユキさんが困るだろ」
「いえ、大丈夫です」
「昨日といいごめんよ。どうにも僕が女の子と話してるのは珍しいみたいだ」
「あはは」

言いながら、マツバさんはゲンガーの尻尾を引っ張って私から離した。ゲンガーは不服そうに声を上げて、大人しくマツバさんの隣に並ぶ。

「それで、今日はどうしたんだい?」
「え……っあ……」

――どう言えば、いいのだろう。いや、そもそも私は何故来たのだろう。ただ、漠然とこの人なら助けてくれる。そんな気がして来たのだ。よくよく考えてみれば、ずいぶんと甘い考えだった。
第一私とこの人は昨日初めて言葉を交わした、言わば全くの他人なのだ。そんな人間に突然訳の分からない相談を持ちかけられるなんて、いい迷惑に違いない。
思わず言葉に詰まり、俯いた。
……これでは都合の良いようにやって来ただけの他力本願な人間だ。急に惨めで情けない気分になった。

「何か、あったんだね」
「! い、いえ、何でもないです。すみません。ただ、近くを通っただけなんです」
「……」
「あの、ごめんなさい。本当に、あの、帰ります。すみません」

言葉を紡げば紡ぐほど、どんどん罪悪感が膨張していく。自分が如何に情けない甘い人間なのか、突き付けられた気分だった。

「……でも、何か話したいことが……」
「か、帰りますね。お仕事頑張ってください。えっと応援してます」
「!」

何か言われた気がしたのだけど、構わずに走ってその場を離れた。
マツバさんはジムリーダーだ。仕事が忙しい。そんな人に、変な相談なんか持ちかけられない。何よりもそんな仲ではない。
……私、バカだ。
走って、走り続けて、街から少しだけ逸れたところで立ち止まった。息を整える為に大きく呼吸を繰り返す。肺腑に流れ込む酸素が、喉を焼くように気道を通った。

――帰ろう。

帰っていつも通りに過ごせば、きっと何も起こらない。怖くなんかない。大丈夫だ。大丈夫。きっと、平気。

「――!」

不意に、背後で地面を蹴る音が聞こえた。心臓が跳ね上がる。ドクドク波打つ心臓に、息を呑んだ。
ポケモン、だろうか。そうだ、きっと、そうに違いない。
全身が震えるのを抑え、ゆっくりと体を反転させる。しかしそこには何もない。気のせいだったのだろうか。改めて辺りを見回すが、やはり何もなかった。肩に入った力を抜く。
早く帰ろう。
同時に視界の片隅で、白い着物が揺れた。

「!?」

呼吸が一瞬止まる。どこからともなく猫の鳴き声がした。私はたまらずその場から走り出した。
――帰ろう。帰れば大丈夫だ。きっと大丈夫。全部気のせいだ。何もない。気の持ちようなのだ。大丈夫。大丈夫。明日になれば、大丈夫。





「ゲンガーも気付いた、か」

先ほどからツユキという女性が去っていった方向を気にしていたゲンガーが、こちらにちらりと視線を向ける。
彼女はどうにもそういったモノ≠ノ魅入られる体質らしい。いや、魅入られる、というより、僕の影響を受けたのだろうか。偶に霊媒体質の人間の影響を受けてしまう人がいることは聞いていた。波長があったり、長いこと側にいると、どうにも移って≠オまうらしい。いや、移るという表情が正しいのかは分からないが。

とはいえ、昨日初めて言葉を交わしたばかりの人間だ。無闇に声をかけても、怪しがられてしまうだけだろう。特に問題がないのなら、心配する必要はない。しかし先ほど訪ねてきたことを思うと、放っておくのは可哀想な気がした。

「! ゲンガー?」

不意に、夜色の体躯をしたパートナーがふわりと体を浮かばせた。その視線の先には、ペルシアンがいる。野生ではない。なら、誰かの手持ちのポケモンだろう。主人はどうしたのだろうか。
――そういえば、彼女の家にもペルシアンがいると言っていたか。
ふと、女郎花色の体躯が動き、真紅の瞳が向けられる。赤く光るその光彩に、眉をひそめた。
するとその後を追うようにゲンガーが動き出す。

「いしゅをうつればへんげのめい=c…か」

ゲンガーの後を追うべく、歩き出した。







20110223




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