▽17

感情をいまいち認識できず、流れる涙の訳は分からなかった。当事者でもないのに、何故だか別れなければならないような寂しさと離れがたさがあった。ついさっきまで怖かったジュペッタが、不思議なほどに愛おしく映る。もしかしたら。そんな空想を冷静にする思考の片隅に反し、感情に従い私は泣いた。また、マツバさんが私が泣き止むのを待っていてくれたことだけはわかっていた。すっかり泣き腫らした目蓋を擦る私に、彼は力なく笑っていた。

互いに落ち着いた頃、私はマツバさんに半ば強引に家に帰されてしまった。本当は心配で泊るつもりだった。しかしそのころには、何故か胸につっかえていた得体の知れない不安感も綺麗に抜け落ちていた。連れて行かれてしまうだなんて、そんな漠然とした不安を抱いたこと自体が嘘のようだ。病室を出るときの、彼の穏やかな顔が思い出される。
明日また来ると言った私に、彼は待っているよと優しく言葉を返してくれた。




▽18

「ミナキ君、迷惑をかけたね」

病室を開けるなり、すでに目覚めていたらしい友人は苦笑混じりにそう言った。顔色はまだ良いとは言い難い。しかし昨日が嘘のように生気が戻っていた、正直驚いた。ここに来るまで、さんざん陰惨な顔をしたマツバを想像していたのだ。そのたびに気が鬱いだ。それがまさかこんな穏やかな顔をしているなんて、拍子抜けもいいところだ。翳りが消えた彼の姿に目を瞬かせる。
何か、あったのか。
呆然とその彼の表情を眺める。何故かはわからない。だが、表情が変わった気がした。

「そういえば、ツユキはどうした? 昨日はここに泊まると言っていたが」
「ああ、うん。なんだか悪かったから帰らせたよ」
「そうか」

言いながらゆっくりと椅子に腰を下ろした。そして改まって彼の顔を見れば、心なしか目が腫れているように見える。寝てないのだろうか。思わず眉をひそめれば、それを敏感に察したのかマツバはかすかに笑った。

「大丈夫だよ」
「!」

少しだけ答えに違和感があった。それにしても、まるで憑き物が落ちたような彼の様子には戸惑ってしまう。同時にジュペッタの存在を思い出し病室を見回すが、今はいないようだ。ふとしたように息を吐き出す。すると今度は「ミナキ君」と急に真面目な顔をした彼に、視線を向け直した。

「陰摩羅鬼は行ってしまったよ」
「?」

何を言っているのか、理解ができなかった。
陰摩羅鬼というと、供養がされなかった死者が化けたという怪鳥だと聞いた。マツバの家の倉に、そういった異形の絵巻がある。そこに載っていたものだ。訝しげな顔をする私に、彼は静かな声音で言葉を続ける。

「ツユキは、ずっと僕のそばにいたのかもしれない」
「!」
「あんな姿にしてしまったことを、後悔しているよ」
「マツバ、まさか」
「大丈夫。彼女とは、きっとまた会えるから」

彼が動くたびに点滴のチューブが揺れる。上体を起こし、宙を眺めながらマツバは少しの間をおいて口を開いた。その口から語られたのは、自分自身の思いと、ジュペッタについてだった。彼は繰り返し繰り返しツユキには酷いことをしたと悲しげに言った。己の真実を語る彼の目は、悲哀と幽寂に満ちていたと思う。
その目は何を映しているのだろうか。ふと、今さらながら思った。




▽19

「あ、ミナキさん」
「!」

不意に背中に触れた声に、ピタリと足が止まった。同時に手に持ったビニール袋がガサリと音を立てる。……突然ゼリーが食べたいと言い出したマツバのために買ったものだ。あの後、一通り話を終えた彼は、少しだけ悲しげに目を伏せて、しかしそれをごまかすように「ゼリーが食べたいから買ってきてほしい」と言い出した。きっと情けない顔をしているのを誰にも見られたくなかったのだろう。返事二つで了承して近くのコンビニに向かった。病院を出てすぐ見えるそこに入っては、適当に三つほど違う種類のものを買って店を出た。そして今に至る。
小走りで自分に追いついてきたツユキは、少しだけ不安げにマツバと会ったかと問いかけた。彼女の目蓋もまた腫れている。それにマツバの目も同じようなことになっていたのが思考によぎった。ああ、もしかしたら。いや。きっと、そうだ。泣いたのだ。思えば彼が泣くなどいつ以来だろうか。『彼女』の葬儀すら出てない彼の、涙は今までに見たことがない。何だかひどく奇妙な気分だ。でもそれは負の感情からくる涙ではなかったに違いない。今目の前にいる彼女には、暗い影は見当たらない。先ほどの彼との会話も脳裏をよぎり、少しの安堵が胸に宿った。


「マツバなら起きて早々に人を使い走りにする始末だ」
「そうですか」
「あの様子なら、心配しなくてもすぐに退院するさ」
「……また無茶をしなければいいんですけどね」
「キミも言うようになったな」

笑いながら返すと、彼女もまたおかしそうに笑った。その顔が『ツユキ』と重なる。
少しずつ、自分の中で何かが確信を持って形を作っていく。
彼の「彼女はずっとそばにいた」という言葉の意味がぼんやりと輪郭を持ち始めた。

彼は、彼女の死を認める一方で、死んだ彼女を探していた。
異形を映す目を持つあまり、「死」を認めても「永遠の不在」を受け止めきれなかったのだ。

それゆえに時間を過去で止めてしまった。亡くなった『ツユキ』に縋るあまり、今≠ニ過去≠隔絶した。そして過去に閉じこもった。
明確な境界線を引き、さらにジュペッタという防壁も築く。虚勢をはり、今にも崩れてしまいそうな精神を保っていたのだ。そうしなければ、身を切るような喪失感を誤魔化せなかったのだろう。
そして亡くなった『彼女』と同じ名前をもつツユキが現れた。それに対する動揺と落胆は一層『彼女』の死を強調した。

それが、陰摩羅鬼を呼んだのだろう。
死にきれなかった人間の成れの果て。
彼は、陰摩羅鬼の姿を見てそう思わざるをえなかったと語った。限界まで擦り減らされていた彼の精神も世界も、そこで一度破綻したのだ。
彼女と病室で涙を流し、現実を受け止めたことにより、ようやく時間が動き出した。

彼はようやく今≠見つけ出したのだ。過去の総てをどうすることはできなくとも、良い方向に向かっていくと信じたい。

「マツバとは、できれば今まで通り接してやって欲しい。君の存在も、今ではきっと大きいだろうから」
「ミナキさんや、ツユキさんには敵いませんよ」
「!」
「ミナキさんこそ、マツバさんをお願いします」

ふわりと彼女の背後にジュペッタが現れる。彼女のその手には菖蒲の花が抱えられていた。






20100310
修正20110116




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