▽菩提より咲く菖蒲

退院は4日後らしい。栄養失調や精神面を考えて、念には念を入れた上での結論だと言っていた。とはいっても、もう入院してから3日が経っている。こんな時に一週間の早さをしみじみと感じてしまう。しかしあの日以来マツバさんの顔色は確実に良くなっている。それに、互いにあの日のことは決して無駄に追求しようとはしなかった。
気まずさと安心と、奇妙な感情が混ざり合っている。けれどそれは当然のことだと思った。彼が抱えているものは、一晩でどうにかなるようなものではない。きっと一生纏まりつき、時には苛むものだろう。

こんなのものは所詮一時の休息のようなものに過ぎない。日常に戻れば、またいつか彼は苦しむことがあるかもしれない。そのとき私は、どうするだろう。


病院に行く途中、ふとしたように私は花屋に寄った。購入するのは決まって菖蒲の花だ。それにさすがに3日目となると、店員さんも私の顔を覚えてしまったらしい。店に入ると同時に「いつものですね」と笑顔で差し出された花に、つい気恥ずかしくなってしまう。勘定をすませて足早に病院に向かった。慣れた足取りで道を進み、病院の自動ドアをくぐる。最近ではすっかり慣れてしまった病院特有の薬品の匂いに、すれ違う看護婦さんや患者さん。長い廊下を進んで目的地に辿り着けば、ちょうど病室の前でミナキさんと会った。
会釈をしながら挨拶をすると、彼もまたかすかに微笑を浮かべながら返事を返す。そしてふと私が持っている花に視線を向けて、ミナキさんは小さく笑った。

「どうかしたんですか?」
「いや。それを持ってきてたのは君だったのかと、ふと思ってな。菖蒲の花、好きなのかい?」
「え? いえ、この間ミナキさんが買ってたのを見てから、何だか忘れられなくて」
「!」
「マツバさんもこの花好きだって言っていたので、いつも来る時はつい」

苦笑しながら答えれば、彼もまた笑いながらマツバさんも喜ぶと言った。どことなく懐かしいような色がその眼差しに宿り、思わず首を傾げる。しかしそんな私の疑問に気付いていないのか、あるいはわざと気付かないふりをしているのか、先に失礼するとだけ残して去ってしまった。
それに思わずキョトンとその背中を眺める。振り返りもせずに廊下を歩いていく背中を見届け、私は病室のドアをノックした。


「どうぞ」
「失礼します」

そろそろと開けたドアの先には、ベッドから起き上がったマツバさんが窓辺に立っていた。昨日まで腕に射されていた点滴はすでに外れている。動きにくいと苦笑しながら言っていたのを思い出し、ああ、良かったなあなどとつい笑みを零した。
そしてこちらを見る蒼い虹彩に囲まれた瞳が、穏やかに細められる。

「あの、これ」
「ありがとう。ああ、花瓶に入れ替えるのは自分でやるから、そこに置いといて大丈夫だよ」

そちらに寄れば菖蒲を受け取りながら彼はそう言った。しかしいくらなんでも病人にそれをやらせるのは筋違いだろう。私がやりますと、渡そうした菖蒲を素早く腕に抱え直し、ベッドの脇にある花瓶を手に取った。それに彼は少しだけ眉を下げる。しかし敢えてそれを見ない振りをして、笑いながら「待っててくださいね」と背を向けた。花を入れ替えるべく、少し小走りで一度廊下に出る。そして部屋を出て斜め向かいにあるトイレの近くの水道に向かった。花瓶の水を入れ直して古い花を取ってから、新しい花を入れる。思ったよりも花瓶は重く、水を入れ替えたり洗うのに一苦労した。そして一通り動作を終えて、ふと何気なしに前を見た。目の前には鏡がある。私が映っていた。

「!」

瞬間、思考が止まる。反射的に背後を振り返った。しかし後ろには何もいない。あるのは廊下の白い壁だけだ。何だ。今のは。見間違いか。しかし思い返せばあまりに明瞭にそれは見えた。背筋に一気に怖気が這い上がる。花瓶を抱えて足早に病室に戻った


「あ、お帰り。どうかしたの? そんなに慌てて」
「今そこの水道の鏡でジュペッタ、が」

ジュペッタが。
言いかけた言葉を飲んだ。そうだ、そういえば最近ジュペッタを見ていない。あの日の夜以来、ジュペッタが忽然と姿を消したのだ。だがそれがただ単に隠れていただけというなら、さっき鏡に見えたのは。そう考えれば別段不思議なことではない。
訊こうとして自分で出した答えに納得してしまった。するとマツバさんはかすかに笑みを浮かべながら口を開く。

「あの子はどこかに行ってしまったよ」
「え……?」
「たぶん、帰ってしまったのかもしれないね」
「帰った……」

言われている意味がわからなかった。そんな私に彼は再び笑う。そしてその視線をベッドへと向けた。真っ白なベッドの上では、薄い影が揺れていた。
彼の影とは別の、うっすらとした影がそこにはあった。反射的に目をそらし、見間違いだと言い聞かせる。
スッと引いてく血の気に、体温が一度下がった気がした。そんなことはないと首を振る。

「もしかして、そういう手の話は苦手かな」
「あの、えっと、いや……あ、ははは……」
「……」
「か、花瓶ここに置いておきますね」
「うん、ありがとう」

その思考を振り払うべく一度菖蒲に視線を向けた。カタンと音を立てて花瓶を置けば、菖蒲の花弁が数枚落ちる。真っ白なシーツに落ちる紫紺の花弁は、どことなく寂しげな色を称えていた。ああ、やっぱり同じ色だ。散ってしまった花弁を拾いながら「すみません」と呟くように言った。マツバさんは「気にしなくて大丈夫だよ」と笑った。散ってしまった花弁とその虹彩が重なる。
この人はまだ、寂しいのだろうか。私やミナキさんがいたとしても、寂しさすら紛らわせないのだろうか。
ふとよぎる考えに無性に悲しくなる。必死に考えを振り払おうと手のひらにある花弁をゴミ箱に捨てた。余計、寂しさが増した。
するとふと、そんな私の思考を中断させるようにマツバさんが声を上げた。次いで何かを思い出したのか、笑顔を浮かべながらベッドに戻る。そして俯きがちな私の顔を覗き込んだ。

「ねえ、ツユキさん」
「はい」
「菖蒲の花言葉、知ってる?」
「それ、ミナキさんにも聞かれました」
「そうか。じゃあ知ってるんだね」

彼がおかしそうに笑う。私はそれに首を傾げた。


「あなたを大切にします=v


「!」
「こういう風に、僕は教えてもらったから」
「はい」


一瞬跳ね上がった心臓は、なんて傲慢なんだろう。どう反応していいのかわからずに乾いた笑いを零せば、どこからともなく声が聞こえた。空耳かと辺りを見回せば、病室の窓の向こう側で、ジュペッタを抱えた女の人が綺麗に笑っている。風もないのに、何故か髪がフワリと揺れた。




ありがとう




もう一度先ほど空耳かと思った声が聞こえる。思った瞬間、窓の向こうの女の人とジュペッタは空気に溶けるように消えてしまった。








20100310
修正20110109
再修正20130116




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