▽16

初て新たなる屍の氣変じて陰摩羅鬼となる(蔵経)
そのかたち鶴の如くして、色くろく目の光ともしびのごとく羽をふるひて鳴声たかし(清尊録)


「陰摩羅鬼というんだよ」

紫紺の瞳が私を見据えた。月明かりだけの冷たく青褪めた空間で、その目玉は妖しく光った。彼の腕の中に収まっているジュペッタが、落ち着きなく辺りを見回している。肌に纏わりつく空気がしっとりと冷たい。細く息を吐き出しながら、一歩だけ後退する。
背骨が軋んだ。

「充分な供養を受けていない亡骸が化けると、黒い鶴のような怪鳥になるんだ」

彼の声が、静かに空間に波紋した。窓は閉まっている。しかしその黒く細長い嘴は硝子をすり抜け、赤い目玉はこちらに向けられた。マツバさんは白く細いその手で黒鳥の嘴を撫で、目を伏せた。その指先は、おそらく黒鳥に触れていない。半透明な黒鳥の身体は、外の街灯の灯りや窓のサッシ、カーテンの色を透かしている。息を呑んだ。いつの間にかボールから出ていたラルトスを、私は無意識に抱きしめていた。

「驚かせてしまったね」
「!」
「大丈夫、僕は、大丈夫だよ」

その言葉は、誰に向かって紡がれたのだろうか。紫紺の瞳は所在なさげにどこか遠くを見ている。とっさに出そうとした声も、何故か私がそこにいないような錯覚にとらわれ、声は喉に引っかかる。
ゆるりと彼は私を見た。それと連動するように、ジュペッタの赤い目玉が黒鳥を見た。
彼の腕をすり抜け、ジュペッタは黒鳥に両手を伸ばしながら宙に浮き上がる。黒鳥は首を擡げ、目を細めた。
――充分に供養されなかったヒトの成れの果て。
何故だか『彼女』のことが思い出された。
葬儀も法事もきちんと行われていると聞いた。供養がされていないはずがない。
しかし。

「ツユキさん」
「!」
「キミを巻き込んでしまったね」
「い、いえ、そんな……わたしが勝手に」
「今日は、もう帰って大丈夫だよ。ありがとう」
「え……」
「これは僕の問題だから、自分でけりをつけないといけないだろ?」
「……マツバさん」
「なんだい」
「あの……。いえ、すみません、何でもないです。ただ、明日も、来ていいですか」
「キミが、何かに責任を感じることじゃないんだよ」

声が嫌に遠くから聞こえた気がした。足元が不安定になる。突き放されてしまったような異様な不安感に、私は訳も分からずに首を左右に振った。彼は困ったように笑う。黒鳥が引きつるような声で鳴いた。
それを合図に、ジュペッタがふわりと私の傍らにやってくる。それについ肩が震える。じっとこちらを覗きこむその瞳に、不思議と恐怖は剥離していった。
この黒鳥が意味するのは一体何なのか。
ジュペッタの存在が意味するのは何なのか。
マツバさんは、何を願っているのか。
亡くなられた『ツユキ』さんは。
――私が入れる余地など、まるでないではないか。
目を瞑る。目蓋の暗闇が熱を持ち、言いようのない感情にふつりと火をともされた。

「『ツユキ』さんは」
「!」

マツバさんの肩が大きく震えた。しかし私は構わず言葉を続ける。静かに燻りだした感情に、声が震える。視界がなぜか滲んだ。

「ツユキさんは、どんな人だったんですか」

教えてください。
声を絞り出す。何故、こんなにも泣きたくなるのだろう。千切れるような切なさと虚しさに、ボロボロと感情が零れた。ラルトスが小さな鳴き声を上げる。嗚咽を押し殺そうと唇を噛みしめた。マツバさんひどく動揺した様子で引き出しからハンドタオルを取り出す。それで私の顔をそっと拭った。次いで、私と視線を合わせ、どこか躊躇うような仕草を見せた。
そしてゆっくりと、どこかはにかむように言葉を紡いだ。

「ツユキは、優しい人だったよ」
「……!」
「だから、よく魅入られてしまうんだ。僕のそばに、いるせいもあって。良くも悪くも、彼女には寄ってきてしまってたんだよ」
「……」

ぽつりぽつりと、言葉が溢れ出す。ゆっくりと充分に間を置きながら吐き出される言葉に耳を傾ける。その間も涙は止まらなかった。

「守らないと。そう思ってた」

ふと、深く陰るその紫紺の瞳に、黒鳥が再び鳴き声を上げる。

「彼女は弱い人だから。いや、弱くはなかったかな。ツユキは気丈な人だったよ。でも、彼女は鬼たちに対抗する力は持ってなかったから。だから僕が」

懐古を深める瞳は、ひどく優しい色をしていた。平生のマツバさんと同じ色なのに、何故か、ずっと落ち着き、安堵に満ちていた。

「だけど、駄目だったんだ」

――事故だった。
ミナキさんの言葉が蘇える。
不慮の事故だった。仕方がない。誰かが責任を負うことではない。

「僕は、守れなかったんだ」
「マツバさん」
「大切な人を、死なせてしまったんだよ」
「マツバさんのせいじゃ、ありません」
「……」
「事故だったんです。誰かが責任を感じたり、責められたりするべきではありません」
「だけど」

ツユキはもう、どこにもいないんだ。

その紫紺の瞳から、大粒の涙の涙がこぼれた。
ひどく困ったように、悲しげに、寂しげに笑いながら、彼はひとつぶだけ涙を零した。
思えばそれが、死者を見る彼の初めての喪の作業だったのかもしれない。

黒鳥はいつの間にか消えていた。



20100309
修正20110109
再修正20130116




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