▽10

じっとりとした空気が肌に纏わりつく。呼吸のたびに肺腑を満たすそれはひんやりと冷たく、体が芯から冷やされていくようだった。カーテンにより日の光が遮られた部屋は、昼間にもかかわらず薄暗い。ざわざわと部屋の片隅から餓鬼の笑い声が響いている。意識を撫でるざらついた音は、小さな頭痛に飲まれていく。痛みをやり過ごすように、深く息を吐き出した。

ゆっくりと、畳の冷たさを踏み締めながら部屋の奥へと歩を進めた。薄闇に隠れて霞んでいた黒い塊の輪郭が、ぼんやりと視界に浮かび上がる。キロリと動いた赤い眼がこちらを捉えた。
暗がりの中、不気味に揺れる色にどうしようもなく苦しくなる。ジワリとこみ上げてくる熱を必死に飲み下し、側に寄ってはその赤ん坊ほどの大きさの体を抱き上げた。手のひらには人形のそれと変わらない無機質な手触りが伝わる。ゆっくりと息を吐き出すように、言葉を紡いだ。

「大丈夫だよ」

脳裏には友人の姿が過ぎる。あの時、彼が浮かべた困惑と畏怖の色。それは過去に周りの人間が自分に向けていたものによく似ていた。自分が一番よく知っている色だ。そして、ずっと忘れていた色でもある。それはもしかしたら、甘えなのだろうか。ひとりではないと、勘違いをしていた自分に対する報いなのだろうか。――あの日、『彼女』を巻き込んだ。その日から、何か、思い違いをしている。人の形をした異形を鬼と呼ぶのだ。人は遺物を淘汰する。ならば、僕は。
これは、『彼女』をこちら側に引き込んで、その生を食い潰した罰なのか。
両手で目を覆う。黒に塗り潰される網膜には、去来する過去しか映らない。
手を離し、そっと辺りを探し回るように視線を彷徨わせた。

「いるんだろ」

――わかってる。わかってる。本当は誰よりもわかってる。
繰り返しながらも、感情はそれを否定する。今まで多くの死を見、受け入れてきたつもりのこの目は、見えるはずのものを求めてやまない。一度は潰してしまいたかったこの目に、どうにかして映らないのかと探している。

「ツユキ」

苦しげに『彼女』の名を紡ぐ。どうしようもないのだ。いない。いない。どこを探しても。何を見ても。いない。映らない。今までは見たくないものばかり見えていたのに。見えない。何故、見えるはずのこの目で、『彼女』が見えないのか。

ツユキ。
隠れているのかい。
どうして僕の前には姿を現さないんだ。
出ておいで。
いなくなってしまったことなんか怒らないから。
笑って仕方ないなって許すから。
それとも僕が何か悪いことをしたのかい。
僕が悪いなら謝るよ。
反省もする。
ごめんよ。
ごめんよ。
ごめんね。
だから出てきておくれ。
もう一度、昔のように。

『忘れられてしまうのは、やっぱり寂しいことですよね』

「……」

彼女の言葉が蘇える。
大丈夫だ。忘れない。決して、キミは消えたりしない。
だから出ておいで。

ジワリと滲んだ視界に、腕の中のジュペッタを強く抱き締めた。
矛盾した自身の意思と感情に、吐くような不安感に襲われる。
いないと認めながらも、会いたいという疼痛に襲われ、この目は彼女を未だに探している。

『さようなら』

『遺書』がひとりでに封筒から滑り落ち、畳にその字面を開いた。くたびれた便箋に並ぶ文字列に、僕は目をこする。
部屋には誰も、いない。




▽11

カーテンを締め切った部屋はくすんだ暗さを孕んでいた。日を拒絶した空気は冷たい。思考を曇らせる憂鬱さに、肺の空気を絞り出すように息を吐いた。
正直、私にはどうしたらいいのかわからなかった。
ミナキさんからマツバさんの過去を聞いて、その重さと暗さを知ったとして、私に何ができるのか。助けたい≠セなんておこがましいだけの感情に、どれほど意味があるのか。キツく目を瞑り手のひらを握る。布団に身を投げ出しては、今一度深く息を吐き出した。

身近な人間の死を体験したことのない私には、きっとあの人の深みには近づけない。痛みを共有することも、慰めることも、励ますこともできないのだ。ただ、黙って見ているだけだ。どんどん擦り減っていく彼の心を、削ぎ落とされていく生きる力を、ただ黙って見ているだけだ。そうしていつかはあっさりと失ってしまうのだろうか。

それは、ひどく恐ろしいことだ。
漠然とした不安がこみ上げ、ついぞ熱が目蓋を覆った。

「ツユキちゃん、ご飯よ」

不意に聞こえた声に、我に返る。
どこかぎこちなく返事を返しながら、布団から起き上がる。
気が付くともう夕飯の時間だ。西日が隙間から射し込み、赤で空間を裂いている。

「今日はツユキちゃんの大好きなもの作ったからね」
「ありがとうございます」

叔母さんは穏やかに微笑んだ。弓なりに細められる瞳が、暖かくて泣きたくなってしまう。自分が如何に恵まれているのか、それを思い知らされる。私はあの人にかかわるには、あまりに平凡すぎた。
今まで通り、過ごすことは許されるだろうか。
失うことをほとんど経験してない私には、今ある繋がりをひとつでも手放すことは身を切るような痛みを伴う。

明日、会いに行こう。
平生の自分を呼び戻すように念じ、自室を出た。



▽12

夕食後、やることもなく茫洋とテレビを見ながら時間を食い潰す。ずるずると引きずるように流れる時間に、何度目ともわからない溜め息を吐き出した。ちかちかと煩いほど色彩豊かに点滅するテレビの画面に、私はおもむろに電源を落とす。
叔母さんは回覧板を回しに近所の家に行っている。おそらく話し込んでいるのだろう。もうかれこれ20分は帰ってきていない。そんなことを思いながら、傍らにいるラルトスを抱えて部屋に戻ろうと立ち上がる。

「!」

途端にブツンと電子音が響く。反射的にそちらを振り返った。次いで聞こえたざあざあというノイズ音に、それがテレビであると理解するのに時間はかからなかった。消したはずだ。首を傾げる。チャンネルに触ったのだろうか。思い、傍らにあるチャンネルを手に取る。テレビの画面は灰色の砂嵐で埋められている。――一瞬、砂嵐の合間に何かが映った気がした。何かの見間違いだろう。違和感を感じながらも、敢えてそれを考えないようにテレビの電源を消した。
しんとした部屋を後にする。ラルトスが勝手にボールから出てきて鳴き声を上げた。
小さなその体躯を抱きしめ、逃げるように自室に向かった。



20100305
修正20110109
再修正20130109





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