▽3

「ああ、いらっしゃい」

風にさらさらと揺れる金糸の間で、深い紫紺の瞳が細められた。柔らかな笑顔と共に向けられた言葉につい表情が緩む。彼の傍らにいるゲンガーにも声をかければ、元気な声が返ってきた。宙をくるくると旋回する夜色の丸い体躯は、愛嬌たっぷりに笑っては彼の足下に落ち着いた。

翌日になり改めて訪れた先で迎えてくれた彼は、平生と変わらない様子だった。ゲンガーに微笑みかける横顔も、ボールを持つ白い指先も、深い瞳の色も、いつも通りだった。
昨日抱いたものは、単なる気のせいだろう。
こんなにも親切に接してくれて、師と呼べるほどに多くのことを教わった相手なのだ。ひどく失礼なことを思ってしまった。良心が咎める。反省するように一度足下に視線を落とした。

「どうかしたかい?」
「いえ、なんでも」
「そう」

向けられた笑顔に、安堵感を抱く。
―ーしかしそれでも。
何故か昨日の夕方の光景が何度も脳裏に再生された。形容しがたい予感が胸中で煮詰まっている。握り締めた手のひらがじっとりと汗ばむ。神経質に辺りを見回しては、まるでそこに異物の気配がないことを確認するように息を吐いた。

「ツユキさん、具合でも悪いのかい?」
「!」
「なんだか顔色が悪いから。今日はお休みする?」
「大丈夫です。すみません。なんだか着込んでこなかったせいか寒くて」
「そっか。なら、講義の前にお茶でもどう? 少しゆっくり暖まってからでもいいだろ」

さっきお菓子をもらったんだ。
笑顔のまま言った彼に、私は頷く。せっかくだからとボールからラルトスを出せば、何故か不安そうに鳴き声をあげた。そして向けられる視線にジワリと不安が広がる。無理矢理それを頭の奥深くに押しやっては、私はラルトスを抱きしめた。大丈夫だと念じては、胸中を浸食する感情に蓋をする。前を歩く背中が、やけに遠く届かないものに感じられた。



▽反転する視界

足元にある玉砂利を爪先でつつきながら、よもぎ餅を口に運んだ。あんこの程良い甘さを舌で転がしながら、傍らにいるラルトスの頭を撫でる。
やはりさっきからずっと、落ち着かない様子で辺りを見回している。
何かの気配を感じているのだろうか。時折まるでここから離れたいとでもいうように服を引っ張っては鳴き声を上げた。それにどうしても不安になってしまう。必死にその思考を振り払おうと、私はそのたびにラルトスを宥めた。
そしてふと、お菓子が乗ったお盆を挟んで隣に座る彼を見る。どこか遠くを眺めながら、彼は湯呑みを両手で握り締めていた。冷めてしまっているのではないのだろうか。湯気もたたないそれにぼんやりと思う。

「……」

穏やかな表情を浮かべる横顔が、心なしかやつれて見えた。思う反面、何故か瞳だけが嫌に静かに淀んだ光を宿しているようにも見える。まっさらな紙面に、一点だけ黒い絵の具を落としたような、井戸の底を覗くような、そんな不安感があった。ふとした時、彼の顔は生気がごっそりと抜け落ちたように、無彩色に映ることがある。その横顔が、手が、首が、肌が、ひどく冷たく見える。しかし目玉だけが生きている。動いている。精巧に描かれた肖像画や彫刻のようだ。生きているようで、生きていない。死んではいないのに、生きてもいない。――では、いつ生まれた。
不意に遠ざかる現実感に、足場が不安定になった気がした。

ラルトスが私の不安を感じ取ったのか、小さく鳴いた。それにびくりと肩が震える。我に返った。

「どうかしたのかい」
「! え、あ、いえ、のんびりしてたらついぼうっとしちゃって」

知らず知らずのうちに早なる鼓動に視線をそらす。すると困ったように向けられる瞳に、動揺が煽られる。必死に平静を装っては首を振る。少しでも不自然さをぬぐい去ろうと、手元にある湯呑みをギュッと握り締めては冷め切ったお茶を一口含んだ。苦味だけが口内に広がっていった。
一度でも覚えてしまった恐怖に背筋が粟立つ。気のせいだと言い聞かせるたびにそれは肥大した。そして急に体感温度が下がったような寒気に身震いすれば、いつの間にかゲンガーが後ろに立っている。そしてその手が持っていたものに、心臓が飛び跳ねた。

「それ……」
「ゲンガー、何を勝手に」

それを見た彼の表情が一変する。怒気を孕んだ紫紺の瞳が鋭利に輝く。ゾッとするほど低く冷たく彼の声は響いた。ゲンガーからそれを奪い取る彼の姿は、平生からは想像がつかないものだった。息を飲み、ただ呆然とその姿を凝視する。爛々と揺れる菖蒲の瞳に、ただただ戸惑うばかりだった。

「マツバさん、その子は」

特別に思い入れのあるポケモンなのか。割れ物でも扱うようにそれを腕に抱く彼に、疑問がよぎる。確かにこの人はゴーストタイプを愛用している。このポケモンもそうだ。しかし普段つれて歩くのはゲンガーだし、バトルに出しているのも見たことがない。何よりこの子を見たのは昨日が初めてだった。確か、家に帰って調べたらジュペッタという名前だった気がする。
人形に、人の思念が溜まることで生まれるポケモン。
成り立ちにゾッとした。しかしそれもまたポケモンに違いないのだ。
彼の腕に抱かれた赤い瞳が私を捕らえる。一瞬だけ呼吸を止めて彼を見た。
暗く揺らぐ瞳が、細められる。

「その子も、マツバさんの?」
「ああ。人見知りなんだ。気を悪くしないでね」
「最近捕まえたんですか?」
「いや、ずっと一緒にいるよ」
「!」
「『彼女』なんだ。帰ってきてくれたんだよ」
「彼女?」

一瞬、何を言っているのか理解ができなかった。しかし彼がそのポケモンに向ける眼差しが普通でないことに気付く。その瞳が宿している、得体の知れない感情にラルトスを抱きしめた。ザワリと、まるで百足が背中を這うような不快感に襲われた。

「こんな形になってしまったけれど」
「……マツバさん、それは」
「助けたかった。僕の力では、これが精一杯だったのだけど」
「マツバさん……それは、『何』ですか」
「『何』って、キミには『何』に見えるんだい」
「え……」

何を言っているのか。
言えば彼は笑う。
何を言っているんだい。これは『彼女』だよ。
言いながらジュペッタを抱き締めた。傍らにいたゲンガーが悲しげに鳴く。ラルトスが怯えたように鳴く。心臓がギリギリと締め付けられた気がした。私は恐怖と混乱に呑まれそうな思考を必死に手繰り寄せて、唇を動かす。

「マツバさん」
「あまりに突然過ぎたから僕は救急車を呼ぶしかできなかった。でもあの後に彼女を見つけた」

助けたかった。

「ねえ、ツユキさん」
「!」
「僕は、助けてあげられたのかな」

今にも泣き出しそうな笑顔で彼は言った。
ふと陰る瞳が大きく揺れる。風がやけに冷たかった。
私には意味がわからなかった。ジュペッタの赤い瞳が私を見つめている。
彼のように特別な力などない私には、彼が吐き出した少ない言葉だけでは何が起こっているのか理解できない。しかしそれでも、彼の問の答えは聞かなくても彼が一番分かってるだろうことはわかった。だからそんな顔をするのだろうか。ズキリと痛んだ心臓に、私は何も言えなかった。





20100224
20101003:修正
20130109:再修正




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