▽1

冷たいほど澄んだ空に、人知れず息を吐いた。見慣れたはずの色も、場所が変わると不思議と抱く感慨が異なる。呼吸器から入り込んだ風は、体内を巡って溶けていく。しっとりと内側から体を冷やしていく空気に、私は踵を鳴らした。
ここでの生活にはすっかり慣れた。これも快く私の居候を迎えて入れてくれた叔母夫婦のお陰だ。気候も土地風も違う故郷に帰ってきたのは、おそらく12年ぶりだ。どれもが幼い記憶と一致するわけではないが、それでも妙に懐かしいような寂しいような気持ちになる。

今ではすっかり歩き慣れた道を進みながら、時折視界に映る色彩豊かな舞妓の姿に、つい余所見をする。こういった伝統や芸術もまたこの街の大きな魅力だ。目的地を目指しながら、そっとポケットの中のモンスターボールに触れた。



「マツバなら、今日はいないぞ」
「!」

辿り着いた先で、聞こえた声に振り返る。ここ1ヶ月で見慣れたその髪色と声、顔立ちに、私は適当に笑みを張り付けた。ひとつきもこの街にいるのは、珍しいのではないだろうか。普段から聞いていた彼の印象は、各地を転々としている神出鬼没な青年だ。すっかり見慣れたその姿に挨拶を放り、会釈した。また目的だった人物の不在も告げられ、少しの落胆に声のトーンが無意識に落ちる。
――この間会う約束をしたのに。
いや、約束と言うには少し語弊があるかもしれない。正確には、その日はおそらく暇だろうから訪れても大丈夫だという、曖昧な言葉だったような気もする。楽しみだったことに違いはないのだ。せっかくあの人の講義を独占できる機会だったのに。そっと息をついては爪先に視線を落とした。……しかし外出しているのなら、もしかしたら早く戻るということも考えられるだろうか。
私の目の前に立つ彼は、僅かに苦笑して「そう落ち込まれると申し訳なくなる」と言葉を紡ぐ。それにとっさに我に返り、顔を持ち上げた。

「すみません、そんなつもりはなかったんですけど」
「ああ。それよりマツバに会いに来たんだろう?」
「あ、はい」
「今日はいつ戻るかわからない。明日改めて来た方がいい」
「そう、なんですか」

期待していたとは真逆の答えだった。あの人の友人であるこの人が言うのだから、間違いはないのだろう。やはり落胆してしまう。夕方までに帰ってきたりはしないのだろうか。思い聞いて見れば、彼は苦笑しながら「どうだろう」と答えを濁した。
その様子にほんの少しの違和感が広がる。思わず眉をひそめれば、彼は困ったように再び笑った。

「まあ、だが今日は少しな……」
「?」
「いや。外で待っていては疲れるだろう。マツバが戻ってきたら連絡しよう。それまで家に戻っているといい」
「はい。……あの、そんなにマツバさん遠くに出かけているんですか?」
「……」


素直に抱いた疑問を口にする。しかし彼は相変わらず困ったような笑顔しか浮かべていなかった。いまいち煮え切らない状況だったが、あまり長居をしては困らせてしまうだろう。頭を下げて「失礼します」という言葉とともに踵を返した。


▽2

私はこの地方の育ちではない。生まれはエンジュの街ではあるが、親の仕事の都合により、引っ越しした先であるホウエンの地で育った。

ホウエン地方というと、辺りは海に囲まれた島のようでありながら広く大きいのが特徴だ。ホウエン一の大手企業がその地方のみならず、積極的に活動しているのも一因しているのだろう。
乗船場でもあるカイナやミナモなども大きな都市として繁栄している。また、宇宙開発の研究の先端でありながら、自然環境も豊かな恵まれた地方だった。科学にも自然にも恵まれた地方で私は育った。
こちらに来た経緯は、別にあちらの生活に嫌気が差したとかそういう理由ではない。この年になってジョウトに来たのは単純に生まれ故郷に憧れたからだ。

ただ地方を跨ぐと言うのは簡単ではなく、それなりのリスクも伴う。何よりもポケモン無しでは街から出ることすら許さない。少しでも自由にいろいろな場所に行くには、それなりに強いパートナーがいなければならない。
トレーナーとして素人である私はここまで来るのにかなりの時間を要した。それだけポケモンにも負担がかかってしまったに違いない。この子のためにも少しでも強くしてあげたいし、私自身も強くならなければならない。
私がマツバさんのもとに通う大きな理由は、何よりもそこにあるのだ。

▽3

エンジュにいる間は親戚の家が滞在場所だった。空いているという部屋を一つ借り、自由に使ってくれという温かい言葉もいただいた。
あの後真っ直ぐ家に戻ってきた私は布団に身を投げ出し、ぼんやりと天井を眺めるだけの虚しい時間をやり過ごしていた。
カチカチとアナログ時計の規則的な音を聞きながら寝返りを打つ。うつらうつらと時を刻む音を聞きながら、思考をゆったりと呑み込む眠気に意識をゆだねた。

するとふと気がついた時には、いつの間にか日は落ち始め、窓から朱色の光が差し込んでいた。薄暗くなりつつある部屋に電気をつようかと体を起こしては、再び布団に横になりため息をつく。今日はこんなふうに過ごす予定ではなかったのに。
時折枕元にあるボールを指で転がせば、不意に中からラルトスが現れた。ホウエン地方で出会いこちらに来る際のパートナーとして与えられたこの子は、人の感情を司るポケモンだと教えてもらった。だからなのか、よく落ち込んでしまった時などボールから自ら出てくる。

……ただ、今はどうやらボールをいじられるのが嫌だったようだ。責めるように小さく鳴いて、私の手からボールを取り上げる。それに苦笑しながら謝れば、再び小さく鳴いてボールを私に返した。

「!」

ふと、ラルトスの角が赤く光る。次いでその子が窓の向こう側を見つめた。驚きながらもつられてそちらを見れば、ちょうど踊場の近くを見慣れた金色が通り過ぎて行く。傍らにいる黒い影がゲンガーだと理解すると同時に、「あ」と声を上げて私は家を飛び出した。




「マツバさん!」
「!」

見慣れた後ろ姿に声を投げかける。それにピタリと彼の足は止まり、こちらに菖蒲色の瞳が向けられた。夕陽に赤く染まる景色に彼の瞳が茫っと揺れる。やけに暗く見えるのは気のせいだろうか。吹き抜ける風にザワリと鳥肌が立つ。

「ツユキさん……」
「何だか冷えますね」
「ああ、今日はごめんよ。自分から言っておいて不在にしてて」
「いえ、全然。マツバさんは今日どこか遠くに?」
「いや、散歩だよ」
「!」
「最近『彼女』を外に出してあげなかったから。久しぶりに一緒に散歩してたんだ」
「彼女……?」
「うん」

言って彼はその腕に抱いているものを私に見せた。そしてその時初めて彼がゲンガー以外の何かを連れていたことに気付く。

「!」

漆黒の体に、真っ赤な瞳がきろりと動く。ゲンガーとは似て非なる色だ。口はまるで声を発することを禁じられたようにチャックで閉められ堅く閉ざされている。
……ホウエン地方で、何度か見かけたことがある気がする。たしか、送り火山のゴーストタイプの。
不意に素早くその赤い瞳が動き、それは私を見た。
ザワリと駆け抜けた悪寒に、無意識に一歩後ずさる。

「どうかしたかい?」
「い、いえ」
「それじゃあ僕はそろそろ失礼するよ。ツユキさんも気をつけて」
「はい」
「それと、明日で良かったらまた来て」
「! はい」

小さく笑って去っていく後ろ姿に会釈する。去り際、何故か彼のゲンガーが悲しげにじっとこちらを見ていた。するとまるで呼応するようにボールから勝手に出てきたラルトスが、やけに悲しげに小さく鳴く。ラルトスが反応するということは、何かあったのだろうか。一抹の不安が泡のように弾けて滲んだ。

ただ赤い景色に溶けていく背中が、見えなくなるまで見つめることしかできなかった。




20100221
20101003:修正
20130109:再修正




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