「ほら、目を離してはいけないのお」

笑い声が風と共に肌に触れる。提灯の火が揺れ、視界が大きく歪んだ。
――先ほどまで、背後にいたはずのツユキがいない。ゲンガーが戸惑うように浮遊しながら辺りを探していた。しかしこの空間には自分とゲンガーともう一人――尼僧の姿をしたそれしかいない。
ゲンガーを傍らに呼び戻し、最後の鳥居をくぐった先にある祠を見据えた。

祠の前には、尼僧が立っている。頭から覆った羽織で顔を隠し、唯一見える口は笑みを浮かべていた。
おそらく「それ」が元凶だ。
直感的に理解した。
ゲンガーはそれを見るなり低く唸りを上げる。
木々がせせら笑うようにざわめき、提灯の火が幾つか消えた。
尼僧は一層笑みを深め、こちらを眺める。

「あなたがこの森の主だね」
「そうさね、主、かどうかはわからなんだ。ただ永いことこの森で生きた。森は私であり、私は森だ」
「それが、侵入者を拒む理由か」

尼僧はケタケタと笑った。羽織が不自然に地面に落ちる。現れた顔は、まだ若い女性のものだった。どことなく鋭利な印象を受ける顔つきだ。こちらを見る目は、悟りとは程遠い貪欲さが滲み出ている。無意識に敵意にも近い感情が思考を焼いた。
しかしその顔は一瞬でぐにゃりと歪み、老爺へと変化する。
あの日、彼女に奴を与え、僕の元を訪れた顔だった。
あまりに不意打ちな光景に唖然としていると、それは気を良くしたのか、笑いながら「これはどうか」と次々と顔を変化させた。
若い女性、少年、男性、少女、老婆。それらの顔は、どれもここ数日のうちに僕を訪れたものだった。

「ほほ、ほほほ。顔なら幾つでも持っておる」
「……」
「だが、この場所はひとつしかない」
「……」
「スズの守人よ、人は命を公平だと謳う。しかし何故、そこのゲンガーはお前に付き従う?」
「!」
「何故我らはそのような狭い鞠の中に閉じ込められ、人間に従う? 何故人は我らの住処を害し、侵しながら、我らがそれに抵抗することを許さない? 人とは何だ?」

――人とは、何か。
ギシリと胸中が軋みを上げる。
では、人でありながら人とは違う目を持つ自分は何なのか。
何が人なのか。
人とはそもそも何なのか。
何がそう定義付けるのか。
遠い昔、人の形をした異形を鬼と呼ぶのだと祖母が言っていた。

「何故、人は厭う。触れられるものが邪魔になれば除外する。見えるものが障れば蓋をする。そうは思わないかえ?」
「……人は、君たちと違って無力だよ」
「無力、ふふふ。だからだ。だからお前は奇異の目に晒されたのだよ。力がないから集まる。集まれば勢力を持つ。異物は淘汰されるだけだ。人の世はなんと生き辛い」
「否定はしないよ」
「ふふ、ふふふ、あははは」

尼僧の笑い声に合わせて、提灯の灯りが風に揺れた。彼女とこのような問答を続けていても意味はない。思考の片隅でくすぶり始める焦燥感に、握り締めた指先に力が籠もった。
これは一体何が望みなのだろうか。
住処を脅かす危険因子を退け、尚も退けたそれに危害を加えている。しかしこの口振りから危険な芽を摘んでおく、とはまた違った主旨にも思える。
人がそれ以外の生き物を迫害するように、人を迫害するとでもいうのだろうか。
だというのなら、今回の件はツユキには無関係だ。彼女に害を及ぼすのは道理にあわない。

「君の望みは何だ?」
「……」
「人の業の虚しさはわかった。君が祟る理由がそこにあるならば、僕は別の手を考えるだけだ。しかし彼女は関係ない。彼女を返してくれ」
「関係が、果たして本当にないだろうか」
「……?」
「別に祟ってはいないさ。撒いた災いはほんの餌に過ぎない。お前を呼ぶこと即ちこの地の平穏。だが」

尼僧がゆっくりとこちらに向かって歩を進める。同時に姿が変わり、それは先日見た着物の少女へとなった。

「あの娘には、根強いのが憑いてるよ」
「!」
「気付けないだろうなあ。ふふ、可哀想に」
「……どういうことだ」
「安心して。一回だけ助かるまじないをかけたから。あげたでしょ、折り紙の奴。あれが一回だけ守ってくれるよ。でもね、一回だけ、あの娘はね、そこから先が千切れてる」
「……!」
「だからいいこと教えてあげる」


――あれはね、青行灯だよ。


少女は笑いながら踵を返した。すると瞬く間にその姿は銀色の光に包まれ、影が人から獣へと変わる。長い九つに分かれた尾がいたずらに揺れた。赤い眼を細め、白い毛並みを靡かせながらそれは踊るように祠の前を駆ける。――キュウコンか。
森の主であるキュウコンは、ひとつ鳴き声を上げ、空気に溶けるように消えた。





あれからどれくらい歩いたのか。暗い夜道をジュペッタの鬼火を灯りに歩きながら、重く息を吐き出した。慣れない山道であることもあり、足が疲労を訴えている。
腕の中にいるジュペッタが気を使うように声を上げた。それに苦笑混じりに休憩をしようと立ち止まる。
月が雲に隠れてしまって辺りに自然の明かりはない。時折不気味にざわめく木々に恐怖が発露する。頬を掠める風がやけに生暖かかった。

「マツバさん、どこにいるのかな」

誤魔化すように言葉を紡いだ。気を抜けば恐怖に体を動かせなくなる。暗い感情に強引に蓋をした。代わりに敢えて明るい仕草でジュペッタを見つめながら首を傾げる。赤い目は私を見返しながら瞬いた。
――それにしても、あの一瞬で一体何があったのか。確かに何か引きずられ、山道の、おそらく坂道辺りを転がり落ちてきた。野生のポケモンの仕業なのだろうか。しかし体に傷はない。不幸中の幸いとでも言うのだろう。大きく深呼吸をすると、湿った土の匂いが鼻孔を満たした。

――同時に、視界の片隅を何かが過ぎる。

反射的にそちらを向いた。生ぬるい風が吹き抜け、ジュペッタが小さく鳴いた。もしかしたら、マツバさんかもしれない。ふ、と軽くなる心持ちに、無意識に表情が緩む。次いでそちらに向かって歩き出す。暗さと生い茂る木の影になってしまってわからないが、人であるのは確かだ。
ゆっくりと近付きながら、マツバさん、と影に声をかけた。

影がこちらを向く。
いたずらに月明かりがそこに差し込む。
黒く塗り潰された顔が、浮き上がった。
そうしてその影の容貌を視界が捉えたとき、私は息を呑んだ。
心臓が大きく蠢き、頭の奥で警鐘が鳴り響く。



――「ツユキ!」
「!」

不意にかかった声に、我に返った。視線の先には何もない。代わりに反対側から見慣れた金色がやってくる。マツバさんだ。まるで夢から覚めたような脱力感があった。途端に体が弛緩してしまい、その場にぺたりと座り込んでしまった。

「大丈夫かい? もしかして怪我を」
「怪我はないです。ホッとしたら気が抜けちゃって……」
「よく見たらボロボロじゃないか。立てるかい?」

ほら、と差し出された手を取り立ち上がる。本当に夢でも見ていたような気分だ。それまでは不安で濁っていた意識が、今は明瞭としている。目の前の紫紺の瞳を見詰めながら、しっかりしろと自身を叱責した。

「ごめんよ、こんな目に遭わせてしまって」
「そんなことないです。マツバさんこそ用事の方は」
「無事に終わったよ」

柔らかく笑うその貌につられて、情けない笑みが零れてしまう。
もう東の空が白んでいる。いつの間にか夜明けがすぐそばまで迫ってきていた。
……しまった。両親には何も伝えていない。これでは心配させてしまったに違いない。
帰ろう、と穏やかに紡がれた声に頷き、その日は慌てて帰路を辿った。







後日、マツバさんを訪れると、再びあのスーツの男性とすれ違った。今までとは違った、憑き物が落ちたかのような晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。マツバさんのお仕事は、無事に終わったのかもしれない。
そんなことを思いながら、いつものようにお菓子を持って訪ね、いつもの位置に腰を下ろす。隣に座るマツバさんもいつも通りだ。

「そういえば、前におじいさんからもらった奴がいつの間にかボロボロになっていたんです」
「あはは、君の扱いが悪いんじゃないのかい?」
「そんなことないです。バッグの中でしたし、バッグの中はそれなりに」
「冗談だよ」
「あ……でも」
「?」
「いえ、何でもないです」

いつも通りなら、何も不安になることはない。
マツバさんの横顔を眺め、安堵を吐く。
体の奥でくすぶる不安を強引に押し殺し、私は笑った。


忘れよう。
――あの日見た影が、自分と同じ顔をしていたことなど、忘れよう。





鵺/了

20120312




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