「それでは、明晩、お願いいたします」

深く頭を下げる男性の慇懃な物腰に、つい申し訳なくなってしまう。そこまでしていただく必要など、全くないのに。出したお茶も1口だけ口に含むだけで、終始緊張したように正座をして強張っていた。若造相手にそこまで丁寧な態度を取るのだから、よほど礼儀作法に厳しい家庭で育ったのだろう。スーツ姿という正装してやってくることが、より強くそう印象づけた。
再び何度も頭を下げ、去っていく男性を玄関先まで送り、居間に戻った。

あの男性が初めて訪れたのは、2週間ほど前の話だ。怪異に悩まされると青白い顔で口火を切った彼は、ことの成り行きと被害をどこか怯えるように語った。なんでも結婚を機に、新築するために裏山を切り開こうとしたらしい。しかし工事が始まったその日に、作業員1人が怪我をした。最初は事故程度には思わなかったそうだ。しかし工事を続けていく内に怪我人や病人が作業員や身内で続出した。終いには、彼自身が和服の人間の幻覚まで見るようになったらしい。さすがに異変に気付き、僕の元に相談を持ち掛けたと言っていた。

この手の怪異は、昔からそこに住み着いていた「何か」が荒らされるのを厭い、追い払おうと祟りを振り撒くという現代の怪談にありきたりなパターンだ。だからそこでの新築や工事を止めれば収まる。しかしあの男性に祟りを持ち掛けたものは、よほど気に入らなかったのか、工事を止めた今も彼に怪異をもたらしているらしい。そこまで根強いものとなると、場合によっては先祖にまで遡る恨みがあると考えられる。

また、今回の事件の面倒なことは、全く無関係の彼女も和服の人間を見たと言っていたのだ。彼女は男性も見ている。あの男性が言う和服の人間と彼女が言う和服の人間は同じものだろう。それにこの家出入りする姿を見ていたということは、僕が見たあの老爺も関係している。
獲物に手を出すなという、警告なのかもしれない。
彼女はあの老爺から赤い折り紙の奴を受け取っている。まるで人質だ。下手に動けば彼女に被害が及びかねない。

重く息を吐き出しながら、畳に身を投げ出した。
明日の晩に、例の裏山に向かう。そこで多少対策を見つけられればいい。





くる。
すずのとうの、もりびとが、やってくる。
もりのいかりを、おさめにくる。
しかしあのこは、ひとのみかただ。
ひとのよは、あのこには、いきにくかろうに。
われらとともに、もりでいきればよいのに。
また、ともにいきるひがくるとしんじていたい。
ここで、いきていくことは、ひどく、さびしい。





「マツバさん、出かけるんですか?」
「!」

夕方、マツバさんのもとに向かっていた最中だった。ちょうどマツバさんの家の門を曲がった辺りだ。そこで偶然にもばったり会ったのだ。ジムの近所ならともかく、こうして外で会うことはずいぶんと珍しい。仕事中なのかもしれないという懸念を忘れて声をかけたことに、不意に罪悪感が沸いた。

「ああ、ちょっと用事があってね。今帰りなのかい?」
「はい。すみません、忙しい時に声をかけてしまって」
「いや、いいんだよ。散歩ついでに済ますつもりだし。……ああ、良かったら一緒にどうだい?」
「いいんですか?」
「君さえ良かったら。ゲンガーも久しぶりに外で遊びたいみたいだからね」

彼が苦笑混じりに零すと、足下の影がぐにゃりと歪む。そしてそこからスルスルと見慣れたシルエットが現れた。驚きのあまり小さく悲鳴を上げると、屈託ない笑みを浮かべながらゲンガーが彼の周りを旋回した。
マツバさんの手持ちには何かといたずらを好む子が多い。会うたびにさまざまな手段で驚かされてしまうのだ。出会ってからそれなりに経つと言うのに、なかなか慣れない。
けたけたと笑うゲンガーを窘める彼の横顔を視界に収めながら、ふと、背後に人の気配を感じた。
反射的に振り返る。
赤く照らされた路面に伸びる黒い影法師が爪先に触れた。
――薄紅色の着物を着た少女がいる。
歌舞練場の子供だろうか。それにしては、着物の形が違う気もする。逆光で暗い影がべったりと張り付いたその顔は、どこか無機質に映った。
冷たさを孕んだ風が髪を梳かす。
少女はただこちらを無表情に見詰めている。
どうしたのだろうか。
胸中に発露する不気味さを噛み殺し、首を傾げた。すると少女はゆっくりと白い手を翳し、人差し指で私を指す。
赤い唇が弧を描き、嫌に高い声が言葉を紡いだ。

「青行灯、みつけた」
「――!」

『青行灯が見ていまする』

「ふふ、あはは、青行灯、青行灯、あはははは」

カラン、と履き物を鳴らし、少女は背を向け走り出す。喉の奥を圧迫されるような息苦しさを覚えた。
……今のは。
先日も似たようなことを見知らぬ和服の女性に言われた。彼女たちは何者なのか。青行灯とは何なのか。不安がぼこりと膨れ上がる。
私は。

「大丈夫」
「!」
「何もない。大丈夫だよ」

不意に、声と共に冷たい手のひらが瞼を覆う。肩が大きく震えた。「ゆっくり深呼吸をして」という言葉に従い、いつの間にか煩く鼓動を打っていた心臓を宥める。肩の力を抜くと同じタイミングで手のひらが外れた。視界には、何の変哲もないいつもの赤い路面が映っている。

「マツバさん、今のは」
「ごめんよ」
「マツバさん?」
「いや、大丈夫だよ」

困ったような微笑を浮かべながら、彼は歩き出した。私はその後を一瞬だけ躊躇った後について行く。

歩きながら彼は、昔よく遊びに行ってた裏山の祠に向かっているのだと言った。お参りをするのだそうだ。その左手には、最初は気付かなかったが和菓子が入った袋がぶら下がっていた。
見慣れたエンジュの道を進み、ひとけのない通りを抜け、いつの間にか獣道を進んでいた。はぐれないように、とゲンガーが私の斜め後ろを浮遊する。
日はもう、ほとんど沈んでいた。濃紺の帳の端に、赤が滲んでいる。

ほんの僅かな不安感を抱いていると、遠くに無数の灯りが見えた。近付くにつれ輪郭がとらえられるようになったそれは、提灯のようだ。
その先に社でもあるのだろう。大きな鳥居とその周りの木に提灯が掛けられていた。
日は完全に沈んだ。辺りは漆に塗り潰される。提灯の灯りだけが頼りだ。草木の湿った匂いが呼吸器を満たす。前を歩くマツバさんは、山道に入ってから一言も発していなかった。
行き先は祠、と言っていたが、そこには何があるのだろう。意味もなく不安になってしまう。ついぞ回顧する陰惨な光景に、緊張感が思考を満たした。

「ツユキ」
「!」

不意に、マツバさんが口を開いた。反射的に立ち止まって彼の背中を見る。金糸の髪が提灯の灯りに、鈍く揺れた。

――同時に足首に圧力がかかった。状況がわからず足下に視線を落とす。白い、蛇のようなものが巻き付いていた。
悲鳴が喉元を突く。
しかしそれよりも早く、足首に巻き付いたものは凄まじい力で私を引いた。

「――!!」
「ツユキ!?」

何が起こっているのかわからなかった。強い力に引きずられ、背中を地面に強打する。視界が暗転し、そのままそれに地面を引きずられていく。摩擦による熱と木の枝や石が肌をひっかく。頭が状況に追い付かなかった。
次に体に強い衝撃が走る頃には、辺りは生い茂る木と夜の暗闇に覆われた、見知らぬ場所に1人でいた。
服のあちこちが土で汚れ、擦り切れている。しかし妙なことに体に痛みはなかった。一体今のは何だったのか。体を起こし、服の汚れを払う。

「ま、マツバ……さん」

躊躇いがちに辺りを見回しながら名前を呼んだ。しかし当たり前のように返事も人影もない。どくりと不安が脈打つ。するとボールから自ら出てきたジュペッタが、励ますように鳴き声を上げた。その黒い肢体を抱き締める。

「!」

ジュペッタを腕に抱えると同時に、何かが私のポケットから落ちた。
足下には赤い小さな折り紙が横たわる。

「あの時のおじいさんにもらった折り紙の奴」

何故か、ところどころが擦り切れてボロボロになっていた。




20120304




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